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クリスマスの時期、イルミネーションを眺めながら歩いていると、心がワクワクしてくる。いつもは暗い場所が明るく照らされているからだろう。更には、クリスマスがもたらす楽しさ・喜びが心に湧き上がってくるということもあろう。クリスマスの華やかさに心が共感する、即ちシンパシー(sympathy)を感じるからかもしれない。しかし、「光」は「闇」の中だから輝きを増すのであって、聖書もそれをはっきり記している、「光は闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)と。
「神様からのお約束」という讃美歌がある。「1.むかしユダヤの人々は/神様からのお約束/貴い方のお生まれを/嬉しく待っておりました 2.貴い方のお生まれを/みんなで楽しく祝おうと/その日数えて待つ内に/何百年もたちました。」そのあとにいよいよ誕生になるのだが、サラリと歌われる「何百年も待つ」ということが、どれほど過酷なことであったことかと思う。期待も希望もとうの昔になくなり、神様は約束を破ったのではないかという不信にすら陥ったことであろう。その上、ローマという大国に支配され、信仰も形骸化しているユダヤの過酷な状況の中で、ついに神の約束が実現する。ただし彼らが望むような在り方ではなく、家畜小屋という最も底辺の、即ち闇のまた闇の中にキリストはお生まれになったのである。神がそのようになさったのは、シンパシーを感じたからではない。闇の中に生きる人々と同じところに立ち、重荷を背負うために。「エンパシーとは相手が体感していることを、自分の身をもって体感できる能力」(HP:workportより)であるというが、キリストはまさにシンパシーではなくエンパシーによって、家畜小屋にお生まれになったのである。
イギリス在住の女性フレディみかこさんが日常を綴ったノンフィクション「ぼくはイエローでホワイトでちょっとブルー」(新潮社)の中の一節。「中学生の息子は、政治教育の試験で『エンパシーとは何か』の問いに、『自分で誰かの靴を履いてみること(Put yourself in someone’s shoes.)』と書いたという。これは英語の定型表現である。」(要約)神がキリストを家畜小屋に誕生させられたことを、「エンパシー」として今も英国の人々は大切にしているのだと思えてならない。
誰かの靴を見て、様々な思いを馳せることまではできても、その靴を「履いてみよう」と一歩踏み出す力はどこから来るのか。他でもない、クリスマスの出来事を深く知ることである。家畜小屋の御子を思い出し、羊飼いたちが聞いた「地には平和」という言葉を心に刻むとき、「私もあの人の靴を履いてみよう」と心が動くはずである。