(1121)
「小さいひつじが」という子どもの讃美歌がある。「100匹の羊の内の1匹がいなくなった。羊飼いは99匹を置いてその1匹を探しに行き、見つけたらその羊を担いで家に帰り、近所の人々を呼んで一緒に喜んでくれ」という譬(たと)えを基に作られた曲である。(ルカ15:1~、マタイ18:10~)見つけ出した羊飼いの喜び、即ち私たちを見つけ出した神の喜びを先ず知るのであるが、子ども讃美歌は、見つけてもらった子羊の喜びを歌ったものである。
保育園の礼拝でもこの譬えをモチーフに話すことがある。羊飼いの立場から話すこともあるが、讃美歌のように迷い出た子羊を主人公にして話す方が、子どもたちは良く聞いてくれる。「子羊のサム君(私が付けた名前)は、いつものように羊飼いさんに連れられ、野原に行きました。その日は良い天気でサム君はいつもより楽しい気持ちで、あちらこちらと遊び回っていました」と、こんな風に話しかける。子どもたちがどのように受け取ってくれているかは正確には分からないが、子羊サム君を自分のことと置き換えて聞いてくれたらと願いつつ話を続ける。最後は少し小細工して羊飼いが迷子の子羊を担ぐ場面では、子どもに近づいて肩に手を置いてあげたり…(コロナ禍では触れることも近づくこともできないので、この小細工は封印中)。「私」に向かって神様が語ってくださっていると感じてくれたら嬉しい。
「シンデレラが語るシンデレラ」(高陵社書店)という絵本がある。新しい母と姉を迎えた時の気持ち、屋根裏部屋に押しやられ寂しさと惨めさの混じった気持ち、舞踏会に出掛ける義姉たちの身繕いを手伝いながら亡き母を思い出す等々、シンデレラ自身になったつもりで絵本が描かれている。ガラスの靴を残す場面には、「私はいそいで(取りに)ひきかえそうとします。が、その足を途中で止めたのです。(中略)それはいうなら、せめてもの置手紙…。王子様、どうか忘れないでください。今夜の私の本当の笑顔を。クツに想いをたくし、私はまた走り出しました」とある。せめてもの自分の気持ちを、二度と会うこともない王子に届けようとする気持ちが描かれる。締めくくりには「キミがシンデレラなら?」という問いがあるが、他の誰かではなくて「私」がどう感じるかが、日常においてもいつも問われていることなのである。
聖書の話は、大勢の人にというよりも「あなた」という個人に向けられた話であり、「他の誰かではなく私に」と一人称で受け取ることが出来た時に、それは私にとっての福音となるのであろう。御言葉があなたの福音となりますように!