十字架や聖像に祈るのは偶像崇拝? 山元 眞 【教会では聞けない?ぶっちゃけQ&A】

Q.十字架や聖像に向かってお祈りするのは偶像崇拝になりませんか?(10代・女性)

十字架や聖像そのものを神格化したりすることは、文字通り偶像を崇拝、礼拝することになるでしょう。木や石そのものを崇拝するのも同じことです。

キリスト教は天地万物の創造者を主として崇めます。この世界のすべてのものを通して働いておられる神を礼拝します。日常生活の中で生きておられる主キリストを礼拝します。それは、目に見えるもの、体験する事柄を通して、その向こうにある存在を崇めるのです。神から造られたもの、そのものを決して拝むことはしません。

コリントの教会に宛てて書いた手紙で、パウロは次のように言っています。「私たちは、見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に存続するからです」(コリントの信徒への手紙二4章18節)。

見えるものを拝むことはありませんが、見えるものを通してその向こうにある方を礼拝し崇めます。十字架や聖像は礼拝を助けます。日常の生活や物質の中に、十字架や聖像を置くことによって、それを通して天地万物の創造者である主を讃え、今も復活して生きておられる主キリストに想いを向けることができます。それを可能にするなら、十字架や聖像は私たちの信仰に役に立ちます。

仏教や神道が社会の基盤になっている日本の社会では、「お守り」などのグッズに代わるものをキリスト教に求めるきらいがあります。それは偶像崇拝や迷信となるおそれがあります。ましてやそれらを商業的なものに変えてしまうのなら、エルサレムの神殿から商人を追い出したイエスの怒りをかうことになるでしょう。

十字架や聖像はその向こうにある方を思い起こし、礼拝へと導くものでなければなりません。真の芸術は真善美である神に導くものです。そのような「作品」であることをいつも私は望んでいます。

やまもと・まこと 1953年福岡県生まれ。80年、カトリック司祭となる。81~85年、ローマ在住(教会法研究)。福岡教区事務局長、福岡カトリック神学院院長などを経て、カトリック西新教会主任司祭、西新カトリック幼稚園園長。2019年、来日したフランシスコ教皇に「カトリック新聞」記者として同行した。

【既刊】『教会では聞けない 「21世紀」信仰問答Ⅲ ―迷えるココロ編』 上林順一郎監修

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