【Web連載】ボンヘッファーの生涯(14) 神学の学徒は、今日何をなすべきか〈後編〉 福島慎太郎

序

前回までは、ナチスとその周辺で生まれた神学について触れたが、どちらかと言えば「書いてみたかった」という好奇心の方が強かった(情報の伝達ばかりで申し訳ないと思いつつ)。しかし今回、改めて本稿の執筆に際してテキストを読み直したところ、「伝えなければ」というある種の「応答的責任」を覚えた。

1. なぜ1933年に「今日」を問うのか

「神学の学徒は、今日何をすべきか」はディートリヒ・ボンヘッファーが1933年の夏に神学を学ぶ学生に向けて記した文書である。当時、彼は講師としてベルリン大学に所属していた。

一見すると、神学生向けの教育論に見える。しかし、1933年という歴史的状況を鑑みると、それほど単純なものではないことに気付かされる。同年の出来事を挙げれば、ヒトラー政権の成立、ユダヤ人らを公職から排除する「アーリア条項」の導入、国家や社会をナチ党の統制下に組み込む「強制的同質化」(Gleichschaltung)の進展など、思想・言論の自由が奪われていく中、教会そのものが「何を告白するか」という危機に直面していた(同時期の教会の動向については前回、前々回の連載を参照)。

したがって、この文書は単なる「神学生の勉強論」ではなく、ある歴史の分岐点において、何が福音で、何が福音を歪めるものなのかを識別し、必要に応じて教会として何を告白すべきかを問うている一つの「信仰告白」とも呼べるだろう。それを踏まえて、共に読み進めてみたい。

なお、ここで引用する文書の日本語訳は、すべて筆者による私訳である。

2. 神学を学ぶ理由を疑う

…nur dann Theologie studieren, wenn er ehrlicherweise meinen muß, etwas anderes nicht studieren zu können.
(端的に、自分には他の学問を学ぶことができないと思う場合にだけ、神学を学ぶべきだ)

文書は神学を学ぶ理由を問いかける言葉から始まる。そして非常に厳しい語りかけとなっている。ボンヘッファーにとって神学を学ぶことは、知的関心や教養の証明などの人間的な願望とは一線を画していた。この学問の営みの端緒は「他の学問を学ぶことができないと思う場合」、つまり時代の必要に迫られ、神と向き合うことに、なりふり構わぬ必要を覚えるところにあるのだと認識していた。

続けてボンヘッファーは、神学に取り組む際には以下の姿勢が求められると指摘する。

Nicht ein Berufungserlebnis, sondern Bereitschaft zu nüchterner, ernster, verantwortlicher theologischer Arbeit steht am Eingang des theologischen Studiums.
(神学の学びの入り口に立つのは、召命の体験ではなく、冷静で、真剣で、責任ある神学的な職務への決断である)

ここでは「召命」そのものではなく、「召命の体験」に根拠を見いだす姿勢が否定されている。ボンヘッファーは、神学的な営みには宗教的な高揚感や自己演出ではなく、「冷静・真剣・責任」をもって取り組む姿勢と決断が求められると語る。

これは彼の人間理解にも関係する。ボンヘッファーは活動の初期から晩年に至るまで、一貫して人間には「Nüchternheit(冷静さ、非陶酔性)」が求められると語った(『共に生きる生活』などで顕著)。これは人間の感情それ自体を否定するものではなく、人間には感情を過度に増幅させ、陶酔する傾向があるという警告が含まれている。

そして1933年という時代も重要となる。当時、社会全体には「新しい時代」「民族の再生」といった熱狂的な言葉が広がっていた。それらを前に、神学的に吟味する役割を担う存在が必要であると彼は考えていた。

3. 十字架と出会うところに

Er mag in sein theologisches Studium seine philosophische, seine ethische, pädagogische, völkische, soziale Passion mit hineinnehmen;
(哲学的、倫理的、教育的、民族的、社会的な情熱を神学の学びの中に持ち込んでもよい)

一方、ボンヘッファーは、神学を学ぶ者が社会や政治など、自分の関心領域を持つことを否定しなかった。これは彼自身が、哲学や社会学に関心を示していたことに関係しているかもしれない。また聖書においても、個人の経験や関心が神との出会いや信仰形成と無関係ではないことは多く示されている。たとえば、漁師であったペトロの召命・信仰形成の重要な転機の多くは水辺で起きている。

しかし、それらの経験や情熱は、最終的にキリストへの情熱に結び合わされなければならない。彼は続けてこう言う。

…Denkens als eines Theologen nirgends anders herkommen kann als von der Passion Jesu Christi, des gekreuzigten Herrn. (…) das rechte Studium der theologia sacra beginnt dort, wo der Mensch in seinem Fragen und Suchen auf das Kreuz stößt,
(神学者としての思考は、十字架につけられたイエス・キリストの受難以外のところから生じることはない。……正しい「聖なる神学」の学びは、人間がその問いと探究において、十字架に突き当たるところから始まる)

キリストの「十字架」と「苦難」。これらはボンヘッファーの神学的思考にとって重要な端緒の一つであり、その展開を方向づけるものであった。これは彼のキリスト理解に根ざしている。同年、彼は説教のなかで、次のように述べている。

イエス・キリストは、人間のためにベツレヘムの馬小屋に人となられた。イエス・キリストは、罪人らのために、取税人や遊女の仲間となられた。イエス・キリストは、裁かれた人々のために、ゴルゴダの十字架に裁かれた。イエス・キリストは、私たちすべての者のために、いのちに甦られた。

ここで描かれているのは、人間の現実のただ中に身を置かれるキリストの姿である。彼は、人間から距離を置いた抽象的な神ではない。ボンヘッファーは、このようなキリストの具体的な生と苦難に注目していた。

同年、ベルリン大学で行われた講義が、のちに『キリスト論』としてまとめられた。その講義のタイトルは「Wer ist und wer war Jesus Christus? / イエス・キリストとは誰であり、誰であったのか」である。ここでもまた中心となるのは、キリストについて抽象的な神概念から考えることではなく、具体的な「この方は誰なのか」という人格も含む問いであった。

講義では、キリストが「自分から罪と死の世の中に入っていく」存在として描かれる。すなわち、彼は人間の現実から距離を置くのではなく、人間と出会い、関係を結ばれる方であり、その生涯は「最もみすぼらしく、排斥され、絶望し、痛ましく死んだ」ものでもあった。ボンヘッファーが注目するのは、神が人間の肉をまとい、人間の現実のただなかに身を置かれたということである。

そしてこのキリスト理解は、信仰者の生き方にも関わってくるとボンヘッファーは考えた。キリストが人間(あなた)の苦しみを自ら担われたのであれば、キリストに属する者(わたし)もまた、この世界の苦しみから目を背けず、むしろ担う生き方に招かれている。彼にとって十字架は、単に苦難を耐え忍ぶことの模範ではなく、人間の現実に身を置き、他者のために生きるキリストの姿を示すものであった。

余談となるが、ここでボンヘッファーは「Theologie/神学」ではなく、あえて「theologia sacra/聖なる神学」とラテン語で書き記している。その理由については特に説明がないので推測の域を出ないが、同じ言葉は、トマス・アクィナス『神学大全』の冒頭にも登場する。

そこでは、神について探究する際、理性によって確立される哲学的な営みとは別に、人間の知覚を超えた神の啓示に基づく探究が必要であると論じられ、両者の明確な区別が試みられている。もしかするとボンヘッファーもまた、神学を他領域の学問と区別して捉える必要性を主張しようとしていたのかもしれない。

4. 告白する教会

Er soll sich durch sein Studium bereit machen, die Geister in der Kirche Christi zu prüfen. Er soll aus der Heiligen Schrift und den Bekenntnissen der Reformation lernen, was die lautere, wahrhaftige Lehre des Evangeliums Christi sei, und was Menschenlehre, Menschengesetz, falsche Lehre und Abgötterei sei. Er soll während seines Studiums lernen, nicht aus schwarz weiß zu machen, sondern Wahrheit Wahrheit zu nennen und Irrlehre Irrlehre.
(神学の学徒は、その学びを通して、キリストの教会において諸霊を吟味する備えをしなければならない。聖書と宗教改革の信仰告白から、キリストの福音の純粋で真実な教えとは何か、また、人間の教えや定め、誤った教え、偶像礼拝とは何かを学ばなければならない。神学を学ぶ間に、彼は黒を白にすり替えるのではなく、真理を真理と呼び、誤った教えを誤った教えと呼ぶことを学ばなければならない)

「御用学者」という言葉がある。これはもともと「幕府に雇われて資料の編纂をしていた人々」を指す言葉であり、今日では、政府や体制にとって都合のよい発言をする学者を指すようになった。そして前回、前々回でも取り上げたように、たとえ同じ聖書を読んでいたとしても、ある人は「すべての人間は平等である」と訴え、別の人は「ドイツ民族は選ばれた民である」と主張することだって容易に起こりうる。

しかし、ここでボンヘッファーは神学的主張の目的を明確に打ち出す。それは「真理を真理と呼ぶ」ことである。聖書を開く者が目指すべきなのは、自らの主張を肯定する材料を探すことでも、特定の出来事の是非を問うことだけでもなく、より包括的で普遍的な問いに向き合うことである。「結局のところ真理とは何であるのか」。これを突き詰める者を神学徒と彼は考えた。

また、ボンヘッファーは「学ぶ」ではなく「呼ぶことを学ぶ」と言った。ここでの「nennen/呼ぶ」には「名付ける」という意味も含まれている。それは物事を曖昧にせず、その実態に即して名指す営みを指す。つまり、真理とはただ認識するだけでなく、それを明確に宣言することを人間に求めているのだと彼は考えていた。これは以下、テキストの結論部分につながる。

Er muß erkennen lernen, wo und wann die Kirche Christi in der Stunde der Entscheidung, des Bekennen-Müssens, im status confessionis steht.
(キリストの教会が、決断の時、信仰を告白せずにはいられない時、すなわち「信仰告白を求められる状況」に立っているのが、いつ、どこなのかを見極めることを学ばなければならない)

「告白」が求められるという点について、ボンヘッファーはさまざまなテキストで議論を展開しているが、ここでは一つだけ引用する。再び『キリスト論』から。

まず「初めに言があった…すべてのものは、これによってできた」(ヨハネ1:1・3)とあるように、あらゆる方法の中で「神は、言葉においてご自身を啓示し給うた」。そして「神の言葉が実際に、人間の言葉といういやしい形の中にはいりこんだ」ことにより、人類は神の言葉を知るようになった。

神は、ご自身が言葉であり、言葉を通して私たちに出会われた。それは同時に、私たちの言葉を通して、他者と出会おうとされているのだとボンヘッファーは考えた。だからこそ、神学とは、単に知識を伝達するための道具でも、自らの立場を正当化するための手段でもない。神の言葉に聴き、その真理を見極め、必要な時に告白するための言葉となることが求められるのである。

そしてボンヘッファーは、「今日」を生きる神学徒には、いつ告白すべきなのかを「見極める」ことが求められると述べる。「erkennen/見極める」と「beobachten/観察する」は意味が異なる(私たちは後者をイメージしやすい気がする)。ボンヘッファーの言葉には、ただ対象を眺めているだけでなく、その時が来たら、即座に行動に移すことができる準備の要求も含まれている。

またも余談だが、「status confessionis/信仰告白を求められる状況」はラテン語で、16世紀にルター派内部で発生した「アディアフォラ論争」と呼ばれる激しい神学的対立の中で掲げられた概念である。ボンヘッファーはあえてこの言葉を引用したのかもしれない。

総括

「神学の学徒は、今日何をすべきか」。それは時代の空気を読み、教会や社会にとって都合のよい答えを探すことではない。十字架を見つめ、聖書と信仰告白に学びながら、何が福音に忠実であり、何がそれを歪めるのかを識別すること。そして、教会が信仰告白を求められる時には、曖昧にせず、それを言葉にするための備えである。1933年のボンヘッファーが託した課題は、今日の私たちにも問いを投げかけている。私たちは、いま何を見極め、何を告白すべきなのだろうか。

参考文献

Bonhoeffer, Dietrich. „Was soll der Student der Theologie heute tun?“ In Dietrich Bonhoeffer Werke, Bd. 12: Berlin 1932–1933, hrsg. von Carsten Nicolaisen und Ernst-Albert Scharffenorth, S. 416–419. Gütersloh: Gütersloher Verlagshaus, 1997.

  1. ボンヘッファー、村上伸訳『キリスト論』(新教出版社、1966年)

トマス・アクィナス、山田晶訳『神学大全Ⅰ』(中央公論新社、2014年)

Vogel, Bernd-Joachim. „Ich möchte glauben lernen.“ Wagnis und Bildung: Dietrich Bonhoeffers Theologie in hermeneutischer und bildungstheoretischer Zuspitzung. Dissertation, Gottfried Wilhelm Leibniz Universität Hannover, 2018.

終わりの覚書─映画『ボンヘッファー』とその後③

参考資料:『百万人の福音』2026年7・8月号(いのちのことば社)

1. 勝手に恩師に応答してみよう

と書いてみたものの、「恩師」と呼ぶのはおこがましいなと思い、「大変お世話になった先生」としておこう。今年発売された雑誌『百万人の福音』(いのちのことば社)の7・8月号に、朝岡勝氏(日本同盟基督教団多摩教会牧師)が「映画『ボンヘッファー』から考える真の『正義』」と題して寄稿されていた。

朝岡氏は私が東京基督教大学大学院に在学中、講師として教壇に立たれ、よくランチをご一緒した。あの時のボンヘッファーや告白教会についての熱のこもったお話が、今の自分につながっていることは間違いない。

今回は朝岡氏の寄稿に(勝手に)応答しつつ、改めてこの時代に映画『ボンヘッファー』を見ることの意義について考えたいと思う。ボンヘッファーをまなざすことは単なる知的好奇心を超え、魂の視座を捉え直す営みに直結するのだと信じている。

2. 本寄稿の核心と問い

朝岡氏の寄稿は、没後80年を機に公開された映画『ボンヘッファー』を巡る状況に対し、神学的・倫理的な視点から極めて深い洞察を提示している。特に、ボンヘッファーを「ナチスに立ち向かった英雄」や「過激な暗殺者」として単純化・絶対化する風潮に警鐘を鳴らし、彼の思索の核心である「祈ること」と「人々の間で正義を行うこと」の不可分な関係を鮮明に描き出している。

また、「暴走する車を止める」という著名なたとえを用いつつ、彼の行動が単なる自己正当化ではなく、自ら罪を背負う覚悟と神の赦しに依拠したものであったことを示し、その神学を単なる歴史的遺物ではなく「現代を生きる我々への鋭い問い」としてよみがえらせている。

3. 映画から何を学ぶべきか──読者としての応答

もしスクリーンに映し出される彼の激動の生涯を、単なる「過去の英雄譚」として消費してしまうなら、それは彼の生き様に対する最大の裏切りとなるかもしれない。

ボンヘッファーが命をかけて私たちに問いかけているのは「いま、ここで、あなたはどのように生きるのか」という切実な覚悟であると思う。彼が直面したのは、分かりやすい正義と悪の戦いではない。国家の暴走という巨大な悪と、それを力で止めるという罪の狭間で深く葛藤し、自らの意志でその責任を引き受けるという、凄絶な神との格闘であった。

私たちが映画から学ぶべきは、信仰者の理想像としての格好良さではなく、祈りによって現実を直視し、倒れている人に寄り添い、具体的な人間の命を守るために踏み出す責任的応答の姿である。スクリーンが暗転したあと、一歩足を踏み出す現実の生活の中で、私たちはどのような正義を行い、神と人に応答するのか。鑑賞体験を自己の生き方への問いへと深めることこそが、彼から受け取るべき真の学びではないだろうか。

4. 総括

私は「イエス・キリストの次に好きなのは誰か」と尋ねられたら迷わず「マイケル・ジャクソン」と答える。5歳から習っていたエレクトーンで一番最初に演奏会で披露したのは『Beat It』だったし、小学生の頃には彼のライブDVD『デンジャラス・ツアー:ライブ・イン・ブカレスト』を見て、毎日踊っていた(今も踊れる)。

そんな彼の伝記映画『Michael/マイケル』が今年6月、日本でも公開された。しかし、ある点について、私を含む一部のマイケルファンが異論を唱えている。ネタバレになるので詳しくは触れないが、それは代表作『Thriller』の制作過程がほとんど描かれていなかった点だ。

実はあの楽曲は、もともと『Starlight』という歌詞がまったく異なる作品であり、そこから制作陣が苦労を重ね、今私たちが聴いている形になった。『Thriller』抜きでマイケルが語れないなら、『Starlight』抜きでもまた『Thriller』は語れないのである。

そんな感想を抱きながら映画館を出た瞬間、映画『ボンヘッファー』に寄せられている声の背景にある気持ちがようやく分かった。みんなボンヘッファーが好きなのだ。だからこそ緻密に描いてほしかった。

前回号で映画に寄せられている批判について取り上げたが、多くのキリスト者には、ボンヘッファーを誤読することが、その社会的影響と同時に、彼自身の信仰と生涯を「安価」なものにしてしまうという危機感があった。

私自身、映画『ボンヘッファー』のDVD特典映像に、解説者として出演している。折に触れて感想をいただき、ありがたく思っているが、同時に語り尽くせなかった、あるいは不十分であると感じている点もある。特に史実性についてはおおむね肯定的な反応を示したが、それは「緻密さ」よりも、幼少期や留学時代、獄中での光景といった「大枠」への同意であった。

一方、前回号で紹介したような声があることも承知していたため、より詳しく学びたい方には、E.ベートゲ『ボンヘッファー伝(全4巻)』(新教出版社)をインタビュー内で紹介した。

ここまで書くと言い訳のようにも聞こえるが、まあいいだろう。私はそれらの声を承知した上で、それでもこの時代に彼の人生をまなざすことには大きな意義があると考えている。それは本節の2・3で述べた通りである。だからこそ、作品を視聴するだけで終わらず、彼の軌跡を今を生きる私たちがどのように生かすのかが大切なのだと、特にインタビュー後編で促した。

私もボンヘッファーが大好きだ。だからこそ彼の生涯を誤読しようとする一部の動きに心を痛めている。それでもこの時代に、この作品が世に放たれたことには何らかの神の計画があるのではないかと期待している。

改めて、ボンヘッファーに出会うすべての人にとって、彼の類まれな勇気と洞察力、そしてその根底にある信仰が、少しでも今を見つめる糧となることを願っている。

この記事もおすすめ