金城学院中学校・高等学校(名古屋市守山区)は、1921年9月に日本で初めてセーラー服を制服として制定してから、今年9月で100周年を迎える。これを記念して同校では、洋菓子店「カフェタナカ」(本店:名古屋市北区)とのコラボクッキー缶を制作。金城学院の学生・生徒・園児、卒業生・卒園生・保護者・教職員限定で8月11日(水)まで販売している。
上下に分かれたセパレート型の王道のセーラー服。その起源については、さまざな説があったが、2018年、日本近代史研究者の刑部芳則さん(日本大学准教授)の緻密な調査研究により、日本で初めてセーラー服を制服に採用した学校は金城学院であることが判明した。
同校に制服が導入されたのは1921年(大正10年)9月。アメリカ人宣教師・ローガン氏の娘が着ていたセーラー服をモデルに作られた。デザインが美しく、軽やかで動きやすいセーラー服だが、当時の写真を見ると、左から1人目と3人目の生徒が草履(ぞうり)を履いており、まだ洋服を着慣れていないようすが感じられる。
当時のセーラー服の仕様は、紺地の襟と胸当てに白線2本、袖に白線2本を上限に重ねた4本。リボンは制服と同色で蝶結び。「名古屋襟」と呼ばれる、腹部中央まで大きく切り込みが入った襟は、このセーラー服から生まれたものだ。
金城学院は、1889年(明治22年)、米国南長老教会のアニー・ランドルフ宣教師が、R・E・マカルピン博士の協力を経て、名古屋市東区下竪杉町に私立金城女学校を開校したことに始まる。以来132年間、中部地区最古の女子教育機関として、常にこの地域の女子教育をリードし続けてきたが、ファッションにおいても最先端だった。セーラー服が導入される以前には、和服の制服が制定され、木綿服の白襟に鮮やかな青藍色の袴、というハイセンスなスタイルは「バイブルガール」と呼ばれ、羨望(せんぼう)を集めていたという。
日中戦争(1937年)が始まると、おしゃれは贅沢(ぜいたく)とされ、セーラー服の襟の白線も3本から2本、そして1本へと減っていき、袖口と胸当てからは白線自体が消えていった。さらに大東亜戦争(1941年)に入ると、制服は国家の統制下に置かれ、スカートが禁止に。しかし、そんな窮屈な時代の中でも、多くの金城学院の生徒は、姉や先輩から譲り受けたセーラー服の上着を身に付けていた。
戦後、新学制により金城学院中学校 高等学校が設立され、戦前は自由だった制服のネクタイの色や襟、袖線の数は、中学校と高等学校それぞれに定められた。ただ、襟の白線は戦時中に減った1本のまま。これは、戦火の中でも懸命に生きた金城学院の歴史を記憶し、平和な時代になったことに感謝する心を持ち続け、この先もずっと生徒たちが、神様の光に照らされた一筋のホワイトラインの上を歩んでいけるようにとの願いが込められている。
今回、制服制定から100周年を記念して、販売されているカフェタナカとのコラボクッキー缶(金城学院オリジナル缶)は、カフェタナカのシェフパティシエ田中千尋氏と田中千寿氏が同校の卒業生であったことから、両氏の協力を得て実現した。オリジナルの缶は制服生地の濃紺をオマージュして、艶消しの紺色で調製。縁取りには濃紺に映える金色、そして濃紺の真ん中には制服の胸に輝く校章バッジのように、誇らしく艶(つやや)かな校章があしらわれている。
中のクッキーは、1枚1枚手作りで丹念に焼き上げられたクッキー「レガル・ド・チヒロ」シリーズから、ビスキュイ・ブール・カフェショコラ、ビスキュイ・ブール・アマンド、ビスキュイ・ブール・ショコラサントメの3種類。ビスキュイ・ブール・カフェショコラには、現地の女性支援も目的にスタートした、カフェタナカ自社農園のあるアフリカ・ギニア湾に浮かぶサントメ島のカカオが使用されている。
金城学院のオリジナルグッズ販売サイトから、8月11日(水)まで注文を受け付け、発送は制服制定100周年にあたる9月上旬から下旬を予定している。