訪問伝道から見えるもの
今や教会も時代の波に洗われて、信徒への連絡がメールやSNSの時代に入った。聖日の礼拝も、リアルタイムにパソコン画面上で参加できる。もちろん、それが役に立つなら、教会の働きに取り込むことにいささかの反対をするものではない。しかし、こうした現代の情報メディアと無縁に暮らしている信徒の中から、教会内のコミュニケーションの取り方に不満が出ていることも事実である。
先だって、「メールを使っていないので、葬儀の連絡が来なかった」と苦情を言う古くからの信徒がいた。とくに高齢層に多い。高齢の信徒は、若い頃から教会に熱心に関わり、今や教会抜きの生活は考えられないほど根づいている。それだけに、晩年になって教会から疎外されたような気持ちになるのは当然である。
教会というところは交わりを大切にする。社会的に言えば、人間関係が重要視される。しかも、その関係はナマの人間関係である。ナマの人間は、資格や条件を抜きにその人そのものの存在や生き方にじかに触れるような関係である。人はそのような交わりを求めている。
それを作るのに最もよい手立ては訪問伝道にあると私は考えている。裏を返せば、教会が信徒のところにやって来るのが訪問伝道であり、牧会である。信徒が教会に来るのとは逆の方向性を持った伝道牧会と言えるかもしれない。
私は神学校卒業以来、4つの教会を歴任してきた。小さい教会もあり、大きい教会もあった。長い歴史を持つ教会もあった。いずれの教会に赴任しても、訪問することを最初の働きとした。
そうすると、教会員の生活環境や家族構成がよく分かるようになる。家から教会までどのくらいの時間がかかるか。また、家族全体が教会員である場合もあるし、ご本人だけが信仰者という場合もある。とくにご夫婦の場合、夫人は教会員だが、ご主人は違うとか、またその逆の場合もある。
こうしたことも、訪問して家族と顔見知りになる機会があってこそ知ることができる。家族共々、クリスマスなどに教会へ誘いやすい関係も生まれる。時には、教会では聞けない話を聞くこともある。未信者の家族がやがて洗礼へと導かれる喜びも味わう。
このような関係を作るには、かなりの時間がかかることは承知の上である。しかし、長い顔見知りの関係は、こちら側からの訪問がなければ生まれることはない。
私は訪問をする場合、あらかじめ電話をして訪問をすることはほとんどなかった。そのため、訪問時間を短くした。自分では「30秒訪問」と言っていたが、玄関先で教会の週報や印刷物を手渡し、手短に様子をうかがう程度にしていた。
夫婦共稼ぎの家庭の場合、留守宅を訪問することもあった。そうした場合には、「近くに来ましたので」と、持参したものに書き添えてポストに入れるようにした。その地域に住む家庭をまとめて訪問するので、そのように一筆書いておけば、心理的な負担をかけないですむと考えてのことである。
時には、「せっかく来たのだから」と招き入れられることもある。とくに高齢の信徒の家を訪ねると、お茶を出されて長話を聞くこともあったが、なるべく他の家人の迷惑にならないように長居は避けた。
ある時、教会の役員のお宅を訪ねたら、「役員になると、ほとんど毎週、教会に行っているので、訪問されませんね。でも、個人的に話したいこともあるのですよ」と言われたことがある。私自身、「何事もないだろう」と、すっかり安心しきっていたのである。以来、よく教会に来る信徒宅も訪問するようになった。