新型コロナ・ウイルスの感染が日本で確認されてから4カ月が過ぎた。4月30日現在、日本全体で感染者1万4305人、死者455人を数えている。アメリカ、ヨーロッパに比べるとまだ少ないと言えるかもしれないが、予断を許すことはできない。状況を見て取ったキリスト教会では、礼拝のライブ配信に踏み切ったところもある。感染者をできるだけ増やさないためである。
いくつかの教団・教派の教会におけるライブ配信の動画を見たが、工夫を凝らした画面に多くの人は引きつけられたことであろう。筆者自身も所属する教会では、事前に配布された礼拝式文、週報、説教テキストを見ながら、ユーチューブを使って在宅で礼拝に参加することが許されたことに深く感謝した。同時に、がらんとした会堂の説教壇から、おそらくは緊張感と寂寥感(せきりょうかん)と戦いつつ説教をする牧師には、これまでにないストレスを与えたであろうことに思いを馳(は)せながら、ライブ配信の礼拝に参加したことを、感謝と共に付け加えておきたい。
教会というところはもともと、人が集まることを基本として成立している。最近、礼拝を中止する教会が増え始めて、孤独感を訴える人々の声を聞くことも増えた。ある友は、「教会での何でもないような会話がとても大事なことだと分かった」としみじみ言う。また、「教会に行くと『お元気ですか』と声がかけられる。私はそれを聞いて何となく安心する。今はそれがないので寂しい」と言う人もいた。他者との接触を断たれて一人でいる時間が長くなると、健康な者であっても、医療ケアを必要とするほどではないが、一種のうつ的状態になりがちである。「コロナうつ」という言葉を聞くのも、そのような症状の表れであろうか。とくに一人暮らしの高齢者はそうであろう。通常であれば、伝道者や知り合いの信徒が生活ぶりを案じて顔を見に来てくれることもあったが、マスク姿の訪問ではお互いに緊張を孕(はら)む。
今日の緊急事態の厳しさは、人が集うところに生まれる人間関係のぬくもりを奪っている一方、教会では、「この事態にこそ必要である」と信徒による牧会配慮の環境を形成する動きが目立つようになってきたようである。ある教会ではIT委員会を立ち上げ、そこを中心に、牧師も含めて総教会員のほぼ半分近くが教会のメーリングリストに登録をし、互いに思っていることを自由に吐露(とろ)し合うグループ作りをしたり、インターネット環境を持たない層には、郵便や電話での安否確認を兼ねた地域別連絡網を作成したりして、信徒と教会の心理的距離が遠くならない工夫をしている。
こうしたグループ作りを見ていると、従来の青年会や壮年会、女性会と違ったタイプの活動が生まれつつあることに気づく。メーリングリストに登録した教会員がオープンに交わすメールを見ていると、年代を超えた教会員同士の安否確認メールの交換や、日頃あまり知らない相手であっても、相手の生活状態や健康問題への配慮、あるいは正直に自分の現状を知らせるメール、一見たわいのないような日常の出来事の報告、礼拝についての意見など、忌憚(きたん)のないメッセージが行き交っている。こうした情報交換によって人は、教会の中で孤立していないことを知り、とくにうつ傾向にある人にとっては、孤立感や寂寥感、不安感などに寄り添ってくれる仲間がいることが分かって、いざという時の心強い助け船になっている。そこでは、信徒間相互の援助関係や見守りタイプの牧会配慮が有効に働いている。
こうした働きは、コロナ騒動に限らず、今後の教会になくてならぬ動きとなるに違いない。今日の教会では、いずれの教派においても、牧師や司祭の減少という事態が起こっているが、それを補う力が信徒の中から生み出されようとしていると期待してよいのではないか。コロナ禍がなくとも、信徒による牧会配慮の必要性は、今後の教会形成に必須であろう。それが今、この緊急事態をバネにして促進されているように見える。それにしても、コロナ騒動が早く収束しないかと祈っている。