キリストに生きるか、自分に生きるか
ある一人の教会員がやって来て、考え込んだ様子で「話したいことがある」と言う。「実は私は悪性腫瘍(しゅよう)に罹患(りかん)しています。医師からは余命半年と言われているが、これから先、信仰者としてどう生きるかを知りたい。なぜこんなことを言うかというと、先生も難病を患っておいでと聞いた。先生は自らの体験を通して何を考えているか、お聞きしたい」ということであった。
「このような場合、誰にでも通用する一般公式はないでしょう。自分だけが自分の問題に責任を持つことができる。その自分をどのように見いだすことができるか、そのお手伝いをさせていただくことはできるかもしれない」と相手に伝えた。すると、「ともかくも、自分が何を考えているか聞いてもらいたい。その上で先生自身がどんなことを発見したか知りたい」と返事が返ってきた。
私はそれを聞いて、何やら真剣勝負のような感じがして瞬時とまどったが、この人と分かち合うものがあればと思った。「私は難病を患っているが、信仰があるからといって、悟りを開いたような心境にいるわけではない。迷いながら日々を過ごしている。しかし、そういう私に信仰的な手がかりを与えてくれた一人の人物がいる。昔の人で、よく知られているので、あなたもご存じかもしれないが、もしその人物のことをあなたと分かち合うことができればと考えるが、どうでしょう」と切り出した。
以下は、その時の話である。
19世紀半ばの南ドイツ、バートボルの教会にクリストフ・フリードリッヒ・ブルームハルトという牧師がいた。父親のヨハン・クリストフ・ブルームハルトも牧師であったが、一人の女性教会員に取りついた悪霊を追い払ったことで有名になり、教会には多くの人が「いやし」を求めて集まった。息子のブルームハルトも父の後を継いで牧師となったが、彼の代になった後も相変わらず「いやし」を求める大勢の人が教会に集まった。
そのうち彼は、次第に人々の信仰に疑念を持つに至った。「救い主は私たちのために地上で良い生活を創(つく)ろうとされるのだろうか。彼は、私たちが苦労せずにやっていけるように生活改善をされるのだろうか。地上の生活が健康であるために病気をいやされるのであるか」と嘆いたそうである。
しかし、その嘆きを断ち切るかのように、私たち信仰者の心に響く言葉をいくつか残している。「神は信仰によって、この地上に必ず何事かをされるお方である。世の中がイヤになったからといって、目をそらしてはならない。イヤになればなるほど、そこに神の働き場を見る」、「困窮と貧しさの中に座ったままでいよ。辛抱せよ、辛抱せよ、神がお呼びになるまでは。そうすれば『我ここにあり』ということができる。その時、目の前に温かいスープが置かれていることを知る」、また、「病を得るのも神の御心、いやされるのも神の御心」というのもある。いずれも信仰者の生き方を示唆する奥の深い言葉である。
中でも、私自身が最も印象深く感じたのは、「キリストに生きるために死ね」という言葉である。人は自分のために生きているという思いから解放されない限り、自分の願望成就の奴隷になってしまう。「キリストに生きるために死ね」とは強烈な言葉だが、「信仰者は徹底してキリスト中心に生きるようにされたのである」とする言葉であろう。私はそのようにこの言葉を受け取った。キリストに生きる信仰者には、これ以外の生き方はない。それが「今の自分の姿」となっている。
話を聞いていたその教会員は言った。「キリストに生きるか、自分に生きるかですね。単に答えがある、答えがない、の問題ではありませんね。それだと、自分に生きることになる」と。その答えから、私自身改めて「キリストに生きる」姿を思い知らされた感じがした。