クリスマスと言えば、何時もの慌ただしい生活から奪われている幸せを取り戻す季節の行事なのに、今年のクリスマスは、何時になく様子がちがう。新聞やテレビは、コロナ感染者の数が益々増大すると、あたかも人々に不安を抱かせるかのように伝えている。恐らく、今年はクリスマス・パーティーを開いたとしても、気持ちの中に感染するのではとの恐れを除くことはできないかも知れない。しかし、この時だからこそ、クリスマスに付き物のプレゼントの意味を考える機会と捉えてもよいのではないかと思う。
クリスマスのプレゼントに、もし値段を付けるとなると単なる贈り物になってしまう。なぜかと言えば、その中身は誰もが求めて止まない幸せというプレゼントだからだ。そのプレゼントを届けるのは、サンタクロースの役目だ。サンタクロースは、幸せを届けるために、トナカイが曳(ひ)くソリに乗って煙突を通ってやってくる。しかも夜、突然訪問する。これもまた意外な届け方だ。幸せはいつもびっくりするようにやってくる。もし幸せが前もって予告されたようにやってくれば、誰も幸せと思わない。大人は、サンタクロースが大きな袋を担いでどうやって煙突から入ってくるのか、夜だから道に迷わないかと心配する。しかし、袋の中のプレゼントは大人のものではない。子どものものだ。子どもは、大人のような余計な心配はしない。目が覚めたら、プレゼントがクリスマスツリーの根っこに置かれているのを見て、びっくりする。幸せがやってくる時はいつも驚きが伴う。
大人は子どもの成長には賢さが伴わなければ、幸せにはならないと思っている。「頭のいい子になれよ」、「よく勉強したね。」などと自分にはできなかった思いもちょっぴり込めて、プレゼントを渡す。賢くなるには、それ相当の努力をしたり、能力を発揮したりしなければならない。大人は子どもが少しでも賢くなるように、ご褒美としてプレゼントを贈る。
今の世の中は「賢さ」を競うゲームをしているようだ。一刻も早くコロナ禍を抜け出さなければと、人知を絞って有効な対策を立てるため人々は知恵を尽くす。中には、悪知恵を絞って、詐欺や悪徳商売にまで手を伸ばす連中もいる。良きにつけ悪しきにつけ、これほど人の知恵の競争が新聞種になる時代を見たことがない。その反面、競争世界から抜け出して、小さな幸せを手にした人のことも新聞紙上に取り上げられる。その記事を見て、人はホッとする。幸せは小さくても、他人と分かち合うことができる。日常の中から奪われた小さな幸せを取り戻す瞬間を、今年のクリスマスに期待しているのは私だけであろうか。