【映画評】 家父長制の檻の中で 『ジョイランド わたしの願い』

パキスタンの古都ラホールで、ラナ家は慎ましく暮らしている。伝統を重んじる父は足腰が弱って車椅子を使っているが、その発言力は絶大。兄夫婦はそんな父の期待(と命令)に応えるべく4人目の出産に臨む。しかし弟のハイダルは無職で主夫業をこなし、その妻ムムターズが代わりに働いている。2人に子どもはいない。父や兄夫婦から「夫が働け」「妻は家にいろ」「男児を産め」という有形無形のプレッシャーを受けながら、ハイダルとムムターズは釈然としない日々を過ごしている。

『ジョイランド わたしの願い』は家父長制に抗う弟夫婦の葛藤と、それに従わざるを得なくなって下す決断を丁寧に描く。ハイダルに別の選択肢と可能性を示すトランス女性ビバが登場することで、彼女が日常的に受けている差別と偏見も描かれる。それによって家父長制が、異性愛者も性的マイノリティも関係なく(もちろん種類も程度も異なるが)害していることが明らかになる。

ハイダルとムムターズは見るからに家父長制になじまない夫婦だ。姪たちの世話をし、家事をこなすハイダルは生き生きとしているし、メイクアップアーティストとして働くムムターズは仕事にやり甲斐と喜びを覚えている。わざわざ2人の立場を入れ替えて、早急に子を産ませる必要などないように見える。むしろ現状を維持した方がラサ家はいろいろ助かるのではないか。なのに伝統的家族観を守るためだけに、寄ってたかって2人の生き方を否定する。

しかし家父長制が害しているのは、実はこの無力な弟夫婦だけではない。うまく順応しているように見える兄夫婦にしても、男児を産めないことで(元気な女児が4人いるにもかかわらず)追い詰められている。要介護状態になりかけている父も、家長としての威厳が邪魔をして適切なケアが受けられない。なのに現実から目を背けて、自分たちを縛る伝統をひたすら守ろうとする。その姿は滑稽にも映るが、家父長制が蔓延する社会にあっては、彼らも等しく犠牲者の面を持っている。

ハイダルはビバと出会い、その自由な生き方に憧れる。自分の欲望に忠実なビバにならって、ハイダルも彼女と恋愛関係を持つ。しかしビバの自由が、トランス女性が日々さらされる差別や偏見に抗ってなんとか確保してきたものであるのに対して、ハイダルのそれは家庭からの一時的逃避、あるいは二重生活の意味合いが強い。ハイダルには戻るべき「普通の暮らし」があるが、ビバにはない。そもそもビバは自由を謳歌しているわけではない。ラホールのような保守的な街でトランス女性として生きる以上、そう振る舞うしかないのだ。その2人の温度差は、やがて無視できないほど大きくなる。

ハイダルのトランスの人々に対する無理解も露わになる。インド文化圏では「ヒジュラ」(いわゆる「第三の性」)が古くから存在しており、2009年にパキスタン最高裁でその立場が法的に認められたが、まだまだ激しい差別に直面している。ハイダルは決してトランスの人々を嫌悪しているわけではないが、無知ゆえに自身の差別発言に気付かない。それでいてビバと一緒にいようとするので、(結果的に)彼女を傷つけ、都合よく利用することになってしまう。

本作はハイダルとビバの関係を中心に描くが、ムムターズの物語を語ることも忘れない。ムムターズは仕事を辞めさせられ、専業主婦として家に留まることを余儀なくされるが、正面切って抗うことはしない。むしろ諦めて無難にやり過ごしているように見える。けれど彼女の終盤の行動から分かる通り、その絶望は深い。中盤、束の間の休息を得て遊園地「ジョイランド」に行くが、彼女は一体どんな思いで笑顔を浮かべたのか。ハイダルが回想する結婚前のムムターズは、結婚後の疲れ切った姿からは想像が付かないほど生き生きとして、希望に満ちている。彼女を押し潰した抑圧は、それほど大きく、動かし難かったのだ。

ハイダルが初めて見る海の波の音が余韻を残す。それは人々を抑圧し続ける家父長制と、その下で嘆き続けるハイダルのような人々の叫びが、いつまでも終わらないことを表しているかのようで切ない。

(ライター 河島文成)

10月18日(金)より新宿武蔵野館、ヒューマントラストシネマ渋谷ほか全国順次公開。

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