第四章 自戒するとき
人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。
人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか。(ルカによる福音書9章25節)
【解 釈】
一見すると、優先順位をどちらに置いて生きるかという問いかけのように見える。しかしこのイエスの問いかけは、ダイヤモンドか、それともプラチナか、いったいどちらが大切かといったたぐいの問いかけではない。日常の私たちの生き方を素直に見れば、判断する必要がないほど、ちっぽけな自分よりも全世界を所有するほうを当然のように優先するだろう。いや、そんなことはない。寝るところさえあれば十分とか、なんとか食えればそれでいいよなどと言ってはみても、やっぱり居心地のよい家が欲しいし、お金もないよりあったほうがいいに決まっている。全世界を手に入れるというのは、人間の根深い願いである。
しかし、自分自身と比べるものは全世界には存在しないとイエスは言われる。人は全世界のなかにひとりしか存在せず、ほかに代わりはない。それほど自分の存在は尊いことを自覚しなさいというのが、この教えの根本である。
【こころ】
全世界と自分を比べてどちらが大切かという問いかけには、どちらも大切という答えが返ってきそうです。そう言いながら、現実では全世界のほうを自分よりも優先させているのが私たちのようです。お金が欲しい、庭付き一戸建ての家が欲しい、外車が欲しい、しゃれた洋服が欲しい等々、かぎりなく世界中のものが欲しくなってしまいます。人はそのためには苦労を重ね、身を粉にして働きます。ときには体をこわし
てまでも、これらを手に入れようとします。自分も大切、世界も大切と言いながら、現実の生活のなかでは自分を粗末にしているのが事実のようです。
カウンセリングでは、来談者がだれであれ、無条件の尊敬を払いなさいと言います。そうでなければ、人と人との心からの信頼関係が生まれないからです。けれども、来談者に無条件の尊敬を払いなさいと言われても、それほど簡単なことではありません。相手をよく知っているならまだしも、分からないのに頭のなかだけでいくら尊敬しようと思っても、そうは簡単にできないからです。そのため、実際の場面でなるべくこうした態度が取れるように、こんなことをすることがあります。ふたり一組になって向き合ってもらい、相手をよく見ます。最初は照れくさがっている人が大半です。でも、その人たちに、
「さあ、お互いよく相手を見てください。私の言うことをよく聞いてください。これから私の言うことはまちがいなく真理であって、だれも否定することができません。よろしいですか。さあ、よく相手を見てください。あなたの相手は世界中にたったひとりしかいません。かげがえのない存在です。もうひとつ、相手は明日はこの世にいないかもしれません。そう思って相手の方を今一度見てください」
そのとき相手は、もはや行きずりの他人ではなく、それこそいとおしく尊敬に値する存在に変わっているはずです。照れくさい思いは、その瞬間消えてなくなっているから不思議です。
世界中でたったひとりしかいない存在、明日は生きていないかもしれない存在、それは、相手であると同時に、私自身のことでもあるのです。「私」という存在をよく見るとき、もはや何物にも比べることのできないことがひしひしと感じられるのではないでしょうか。