第四章 自戒するとき
人はだれしも自分自身のなかにあるいやなものを見つめたくはない。同時に、だれひとりとして自分のなかにいやなものをもたない人はいない。自戒するとは、自分のなかのいやなものと正面から向き合うことである。向き合うことによって、いやなものを捨てることが自戒ではない。自分にとっていやなものが果たしてきた意味を知ることであり、そこから新しく生きる自分を学び取ることが自戒である。そのとき、いやなものはただいやなものとしてあるのではなく、新しい自分をつくるためのエネルギーとしてあると受けとめることである。
いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。(マルコによる福音書9章35節)
【解 釈】
だれがいちばん偉いのかと言い争っているのをご覧になって、イエスが弟子たちに言われた言葉である。人はおくれを取らないために、他人よりも一歩先んじようとする。それは、この社会が競争原理で動いているからである。後になれというイエスの言葉は、この社会のなかでおくれを取ってもかまわないということであろうか。他人に「どうぞお先に」などと言って電車やバスに乗るのであれば、いっこうに差し支えないかもしれないが、いざこれからの生活をどのように生きるかというようなときに、「どうぞ、どうぞ」などと言っていたのでは、結局食い
っぱぐれかねない。
この言葉は、単純に他人に席を譲りなさいといったたぐいの謙遜を教えているのではない。むしろ積極的に他人には仕えなさいと言っているのである。仕えるためには、他人の後ろにつく。そうでないかぎり、仕えることにはならない。他者に仕える者は、あえて自ら選んで後ろにつくことを決断しなければならないのである。
【こころ】
お呼ばれの席など、どこに座ってよいか分からず、最初から上座に座るのもどうかと端っこに座っていると、「どうぞ、どうぞ」と何度か勧められて上座に移るといったことを日常的に経験します。結局、上座に座ることになると思いながら、下座に座っているのですから、一種の決まりごとみたいなものです。これなどはイエスの教えに当てはまりません。かといって、「今度、課長に昇進だぞ」と言われて「いやいや、ご辞退いたします」などと言っていたのでは、生活は成り立ちません。人は基本的には人の上に立ちたいのです。
しかし、どうしても人の後ろに立たないと成り立たない世界があります。人の気持ちが大切にされねばならない世界です。教会などはその最たるところです。
将来、牧師になる神学生に、「君たちが牧師として教会に赴任したら、最初になにをする?」と聞くことがあります。たいていの学生は「説教をします」と言います。そういうとき私は、「掃除をしたほうがいいよ」と言うことにしています。教会はなによりも気持ちよくなければならない場所だからです。たとえぜいたくなつくりの会堂でなくとも気持ちのよい雰囲気があれば、聖書の言葉も心に泌み入ります。掃除はその雰囲気づくりに欠くことはできません。しかも、人が来たときには掃除はすっかり終わっていなければならないのです。いかにも掃除をしていますという姿を見せるようではもはや失格です。すっかり掃き清められ、打ち水までしてある道を通って会堂に入るのは、どれほど気持ちがよいことでしょう。しかしそのとき、掃除人の姿はなく、神の言葉に仕
える説教者として人の前に立たされています。