第五章 岐路に立ち選択するとき
人生は選択の結果である。人生の結果に影響するのは、環境と出来事、そして生まれつきの素質であり、加えて自己の決断がある。環境と出来事と素質は変えることができないが、しかしそれだけで人生が決定されるわけではない。人生を最終的に決定するのは自己の決断である。その決断は、環境や出来事や生まれつきの素質にもかかわらず、それらを超えて人生を決定する。その決断を促すものはなにか。それを発見した者こそが人生に勝利する。
そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。(マタイによる福音書7章24節)
【解 釈】 岩の上に家を建てようが、砂の上に家を建てようが、見てくれは同じである。場合によっては、砂の上に建てた家のほうが、よほど瀟洒(しょうしゃ)なたたずまいかもしれない。しかし、雨や嵐はどの家にも同じように吹きつける。その結果は歴然としている。
だれしもがこのたとえを聞くと、しっかりした人生の土台となるものが必要だとひしひし感じるにちがいない。しかし頭のなかで考えただけでは、なにも事は生じないのである。聖書は、「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者」と言う。もしこのままではいけない、しっかりした土台をつくらなければと思うならば、聞いて行動しなければならない。聖書も、言葉として聞くだけで終われば、砂の上に家を建てるのと同じである。しかし、言葉が力となって人生の土台となるときとは、聞いた言葉が実行されるときである。実行とは、できることをすることである。できないことをするのは実行ではない。
【こころ】 阪神・淡路大震災の際、土台のしっかりした建築物は倒壊することなく立っていたことが知られています。震災後、西宮の教会に行きましたが、周囲の建物の多くは全壊か半壊でしたが、その教会だけは無傷で立っていました。その教会の牧師が言うには、建築のとき、コンクリート・パイルを20メートル入れるように設計図に書いてあったそうですが、ここは地盤が弱いので、考えて25メートルのパイルにしたと言います。もちろん建築コストはそれだけ多くかかったわけで、論議もあったようですが、そのまま押し切ったのが幸いしたのです。20メートルだったらきつともたなかっただろうと、その牧師は言っていました。はっきりとした予測がつかず、いつ起こるか分からない地震のために無駄とも見える費用を使うのは、ある種の勇気がいるものです。計算ずくで土台を作るのではありません。いつそれがものを言うか分からないのに、いざというときのために役立つ土台づくりは、ある種の決断か勇気を行使した結果です。計画のなかにない部分なのです。計画のなかで行われるのは、地上に見える建物の部分だけです。
しかしこの牧師の偉いところは、土台をしっかりつくったというだけにとどまりません。彼はさまざまな形に壊れた近隣の建物を後ろにしながらこう言ったのです。
「僕は神さまがこの教会を守ってくれたなどと言いたくない。今、ここの教会はなにができるかを教えるために残されたのだと思う。だから、近所の人のためになにができるか考えたい」彼の目はうるんでいました。
「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている」という聖書の言葉をまさしくその人に見た思いがしました。
賀来周一著『実用聖書名言録』(キリスト新聞社)より