沖縄は今日、73回目の「慰霊の日」を迎えた。
1945年4月1日朝、艦艇1500隻が沖縄本島中西部の海を埋め尽くした。米軍は午前8時半から読谷(よみたん)や北谷(ちゃたん)の海岸に上陸を開始。兵員約55万人(うち上陸部隊18万人)が投入され、3カ月にわたる掃討戦が展開された。およそ19万人の犠牲者を出した激しい地上戦は、6月23日、沖縄守備軍最高指揮官である牛島満中将の自決をもって組織的戦闘が終了したとされる。
この戦争を生き抜き、現在、戦争体験の「語り部」として活動する石原絹子(いしはら・きぬこ)さん(81、日本聖公会沖縄教区司祭)に話を聞いた。
石原さんは、7歳の時に沖縄本土で地上戦を目の当たりにしている。
ある日の夕方、日本兵が突然、石原さん一家のいる防空壕(ぼうくうごう)に入ってきて、母を取り囲んだかと思うと、銃口を突きつけ、怒鳴った。「子どもたちを殺すか、さもなくば、ここから出ていけ」
「皇軍(天皇が統率する軍隊という意味の日本軍の呼称)とは名ばかりだった」と石原さん。人間が人間でなくなる悲惨な現実が沖縄にはあったのだ。
防空壕を追われた一家は、艦砲射撃や焼夷弾(しょういだん)の雨が降り注ぐ中、必死に逃げ惑った。硝煙(しょうえん)と砂煙が立ち込める大地で、死を覚悟しつつも、ほかの避難民と一緒に、沖縄島南端の摩文仁村(まぶにそん。沖縄戦で最後の激戦地となった。毎年、ここにある平和祈念公園で戦没者追悼式が行われる)を目指した。同じように南部を目指し、行き場を失った避難民の数はおよそ10万人。残存兵が3万人。追い詰められた時の絶望感は、今も鮮明に残っているという。
「私たち、もう死ぬのかな」
そう母に尋ねると、真っ黒に汚れた顔で力なくうなずいた。
それでも歩を休めるわけにはいかない。敵艦隊からの艦砲射撃が大地を震わせ、あたり一面、血の海と死体の山になっていた。気がつくと、母と兄がいなかった。砲撃に倒れてしまったのだ。3歳の妹の手を引き、1歳の妹を背中におぶって、7歳の少女は再び歩き始めた。
しかし、いつの間にか背中の妹の息は絶え、数日後には、もう一人の妹も「お姉ちゃん、お水をちょうだい」と言いながら死んでいった。
戦争で父、母、兄、2人の妹を亡くし、天涯孤独になってしまった石原さん。「お父さん、お母さん、私を迎えに来て! お兄さん、私ところに来てちょうだい」と叫んでも、返事はなかった。
「この時、いちばん憎いと思ったのは」と尋ねると、石原さんはこう答えた。
「米軍でも日本軍でもなく、いちばん大好きだったはずの母親だったのです。『なぜ私を置いて逝(い)ってしまったの。こんなにつらくて悲しい思いをさせるために私を残したの。どうして私を産んだの』。こんなことばかり考えてしまいました。母だって、生きたかったはず。私を残したくなんかなかったはずです。幼かったとはいえ、こんなことを考えてしまって、申し訳なかったなと今は思っています」
死体の山の上で気を失っていた石原さんを助けたのは、それまで「鬼畜米英」と教えられていた米軍の衛生兵だった。胸元にキラキラ光る十字架のペンダントがまぶしかった。
それから、石原さんは捕虜収容所に連れて行かれ、そこでは温かいミルクやパンをもらうこともできた。食べ物もなく、数日間、何も口にしないこともあった暮らしから一転、米軍には豊富な食べ物があった。
優しい神父が時おり手招きをして、聖堂に見立てたテントへ招いてくれた。そして、子どもが大好きなイエス様の話を何度もしてくれた。
その後、成人してから、クリスチャンだった義母の導きによって信仰の道へ。「福音を伝えることは、平和を伝えること」との思いで献身し、2008年、日本聖公会では沖縄県で初の女性司祭になった。
「この悲惨な戦争を絶対に繰り返してはいけない。現在、日本は戦前回帰のような気配が漂っていますが、戦争がどんなに悲惨なものであったか、沖縄は知っています。どうか皆さんも一緒に考えてほしい。沖縄で何があったのか、そして、これから先、何が起ころうとしているのかを知ってほしいと思います」
戦後生まれが沖縄県民の9割近くになり、戦争の記憶が薄れつつある中、今も米軍基地が造られ、在日米軍の施設の約7割が沖縄に集中している。
今年も多くの修学旅行生が沖縄を訪れる。石原さんは語り部として、学生たちに真の平和を説いている。「平和を実現する人々は、幸いである」(マタイ5:9)と言われたイエスの言葉を信じて。