人間の中に神のいのちを見いだす幸い
2017年1月29日 年間第四主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
2月2日は「主の奉献」の祝日なので、読まれる福音の箇所が異なります。
心の貧しい人々は幸いである。
マタイ5:1~12a
イエスのところに集まってきた群衆は、この世の苦しみに悩む人たちでした。「いろいろな病気や痛みに苦しむ者、悪霊に取りつかれた者、発作に悩む者、体の麻痺(まひ)した者など、あらゆる病人」です(マタイ4:24)。
イエスさまが語りかけられた人々は、ひとことで言って「貧しい人々」と言っていいと思います。そういう人々に向かってイエスさまは「幸いだ」と語られました。
「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(5:3)
このメッセージは、もともとのギリシア語の語順では、「幸い」という言葉が冒頭に来ています。
「幸いだ、心の貧しい人々。天の国はその人たちのものである」
「幸いだ、悲しむ人々。その人たちは慰められる」
「幸いだ、へりくだった人々。その人たちは地を受け継ぐ」
そういう語順になっています。
「幸い」とは、普通の人間社会の価値観での「幸せ」と同じ意味ではありません。「幸い」とは、天地万物の創(つく)り主である神と一緒に生きる「幸い」ということです。
イエスさまは貧しい人々に「幸いだ」と語りました。旧約の預言者イザヤはイエスさまのことを、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれた」(ルカ4:18)と預言しましたが、ヘブライ語で「貧しい」とは「アーナーヴ」で、「苦しむ」とも「へりくだる」とも訳されます。旧約聖書の「貧しい」という言葉は、苦しく、貧しく、へりくだって神により頼むことを知っている人々を指しているようです。そういう人々に「幸いだ」と呼びかけました。
この教えを聞いて、「ちょっと分からないなあ」と思う方も多いと思います。「神父さま、なんで心の貧しい人が幸いなのですか」と聞かれることがよくあります。
日本語で通常「心が貧しい」というと、自分のことしか考えない、相手の立場を踏まえない、ちっとも思いやりの心がない人に対して「あの人は心が貧しい人だね」というような言い方をします。
でも、今日の福音で言われている「心の貧しい人」はそういう意味ではありません。「心の貧しい人」は、直訳すると「霊において貧しい人」と訳すことができます。
先ほども言いましたが、旧約聖書のヘブライ語の「貧しい」という言葉の中には、「苦しめられた人」「貧しい人」「神に信頼し、へりくだることを知っている人」というイメージがあります。
しかし、新約聖書のギリシア語で「貧しい」は「プトーコイ」ですが、これは「経済的な貧しさ」を表すだけで、神への敬虔(けいけん)という意味はありません。それで、神さまに向かう精神的な「へりくだり」と「貧しさ」を表す意味で、「霊において」という言葉を加え、「霊において貧しい人々」になったといわれています。日本語にすると「心の貧しい人々」になりますが、日本語では意味がよく分からない理由はこれです。
今日のイエスさまのメッセージは、そういう人々が「幸い」だということです。その人たちが「幸い」なのは、天の国がその人たちのものだからです。
ユダヤ人は神を畏(おそ)れ尊ぶあまり、「神」という言葉を使わず「天」という言葉を使いました。ですから「天の国」とは「神の国」と一緒です。そして、「神の国」の「国」とは「支配」という意味です。ですから「天の国」とは「神の支配」のことなのです。
「神さまの支配」とは、神さまが私たち一人ひとりを愛し、神さまが一緒にいてくださることだと私は思います。生涯片時も離れない。いや、この世のいのちを終えた後も決して離れることなく、「永遠」といういのちでつないでくださっている。それが「神さまの支配」です。そして、その真実を生きることが「神の国」に入るということなのだと思います。それを「幸いだ」と言っておられます。
神さまが一緒にいてくださることを受け取り、自分にも人にもそれを認めて生き、神の国の真実を生きた「幸いな人」とはイエスさまです。そのイエスさまが私たちと一緒にいてくださいます。
「分かりました。私もあなたと一緒に生きます。あなたが生きたそのいのちを、あなたと一緒に今日生きます」
これが「神の国」を生きるということになります。
イエスさまは人の中に神のいのちを見いだします。罪人の中にも、律法を守らない人の中にも神のいのちを見いだしました。律法を守らない者の中にも神のいのちを見いだすなら、律法の価値体系を根底から崩壊させてしまう。そんな者は危険分子だ。そういうことでイエスさまは殺されてしまいます。しかし、イエスさまは復活して共にいてくださいます。
このお方によらなければ、自分にはいのちがない。そう知っている者が、心の貧しい人です。その人は幸い。どんな人の中にも神さまのいのちを見いだすからです。