世の罪を取り除く神の小羊
2017年1月15日 年間第2主日
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ
ヨハネ1:29~34
自分のほうにイエスが来られるのを見て、洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と言いました。「見よ、何々だ」とは、その方の存在をはっきりと規定するような特別な表現です。
私たちには罪があります。イエスさまは、その私たちの罪を取り除いてくださいます。
ところで、「罪」と訳されているのは「ハマルティア」というギリシア語の単語で、その根源的な意味は「的外(まとはず)れ」です。
私たちにとって「的」とは神さまです。神さまに向かい、神さまと一緒に生きることこそ、私たちが向かうべき「的」です。ところが私たちは、神さまがお創(つく)りになったにすぎないものを、まるで神のようにして、「それだけがすべてだ」と思い込み、それらをお創りになった方を忘れ、滅びあるものと一緒に生きて、一緒に滅んでしまう「的外れ」につながってしまうところがあると思います。
その「的外れ」を取り除き、私たちが向かうべき神さまと一つに結ばれて生きるようにさせることが、「罪を取り除く」ということの意味になります。
その「的外れ」を取り除いてくださる方がイエスさまで、この方こそ「世の罪を取り除く神の小羊だ」というのが今日の福音のメッセージです。
この「神の小羊」という言葉には、どんなイメージが重なっているのでしょうか。
一つは「過越(すぎこし)の小羊」です。イスラエルの民がエジプトを脱出する夜、エジプト中の初子が打たれるという災いが起こりました。しかし、主である神の言葉に従い、汚れのない小羊を屠(ほふ)り、その血を柱と鴨居(かもい)に塗ったイスラエルの家だけは災いが過ぎ越しました。その屠られた小羊が「過越の小羊」と呼ばれます。
その羊の血によって災いが過ぎ越し、そしてその夜、エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民は自由へと解放され、奴隷から自由へと「過ぎ越し」たのです。
その「過越の小羊」にキリストのイメージが重なりました。キリストという汚れのない「小羊」の血によって、私たちは「死」という奴隷状態から「永遠のいのち」へと解放されます。イエスこそ新しい「過越の小羊」だと、ヨハネの福音書は考えました。
イエスが十字架の上で亡くなられたのは午後3時頃のことでした(ルカ23:44参照)。それは、過越祭のために神殿でいけにえの小羊がいっせいに屠られる時刻でした。イエスは十字架の上で新しいいけにえの小羊として、私たちの「救い」のために屠られたのだと、ヨハネの福音書は考えました。イエスこそ「過越の小羊」だ。そのようにイメージが重なりました。
でも、これだけではありません。イザヤ書にも「小羊」のイメージが出てきます。「屠り場に引かれて行く小羊のように……口を開かなかった」(53:7)
世の罪を取り除く「神の小羊」という言葉には、このイザヤ書の小羊のイメージが重なっています。私たちのために苦しみを受け、いのちを取られた小羊。そこに「神の小羊」としてのイエスさまのイメージが重なりました。
私たちの「的外れ」を一身に負って、「的」に当ててくださった方が「世の罪を取り除く神の小羊」イエスさまです。滅びあるすべての者の中に「永遠なるお方」が共にいてくださるという真実に、私たちの的外れを全部集めて、つないでくださったのです。
洗礼者ヨハネは言いました。「霊が降(くだ)って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼(バプテスマ)を授ける人である」(ヨハネ1:33)。そして、「私はそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(34節)と言います。
これから洗礼式になります。洗礼式で聖霊が注がれます。聖霊とは、イエス・キリストの霊であり、いのちです。このお方は、目に見えるすべての出来事の中に「永遠」というお方が共にいてくださるという真実があることをはっきりと見て、向かって、出会ってくださいました。そのお方が私たち一人ひとりの中に立ってくださいます。それが洗礼という、聖霊を受けるという出会いになります。
人間は永遠に生きるために生まれました。それは1000年生きることではなく、「永遠」という神さまが、自分にも、人にも、そして亡くなられた方々にも一緒にいてくださるということを、今日受け取って生きることです。そのことを私たちができるようにしてくださるのが、共にいてくださるキリストです。
幼児洗礼式がこれから行われます。人間は永遠に生きるために、いのちをいただきました。今日、永遠の神さまが、自分にも、人にも、亡くなられたすべての人にも一緒にいてくださることを認めて生きることが、永遠のいのちを受けるということです。ご一緒にお祈りしましょう。