すべての人を満たすための洗礼
2014年1月12日 主の洗礼のミサ
(典礼歴A年に合わせ6年前の説教の再録)
イエスは洗礼を受けると、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのを御覧になった。
マタイ3:13~17
今日は「主の洗礼」の祝日です。
「イエスさまは神さまなのに洗礼を受けるのだろうか」という思いが洗礼者ヨハネにはあったかもしれません。「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私のところに来られたのですか」(14節)、「そんなことしないでください」ということです。
しかし、イエスさまは言われました。
「今はそうさせてもらいたい。すべてを正しく行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)
ここで言われている「正しく行う」とはどういうことでしょうか。文字どおりの意味では「イエスが洗礼を受ける」ということを意味していますが、大きく捉えると、もっと深い意味があります。
「正しく」と訳されている言葉は、ギリシア語の「ディカイオシュネー」ですが、直訳すると「義」となります。聖書の中では、「義のために迫害された人々は、幸いである」(5:10)というように使われます。また、「まず神の国と神の義とを求めなさい」(6:33)というように使われています。「正しく」というのは、神の「義」なのです。
また、「行う」と訳されている言葉ですが、その直訳は「いっぱいにされる」、あるいは「満たされる」という意味です。
つまり、イエスさまがここで言われたことを言い換えるならば、「神の義がいっぱいに満たされるのは、我々にふさわしいことです」とおっしゃっているということです。
では、「我々」とは誰でしょうか。すべての人間です。すべての時代を超えたすべての人間が「神の義が満たされて、いっぱいになる」ことが「ふさわしい」とおっしゃっているのです。
「神の義」とは、神さまが私たちを愛して、私たち一人ひとりを「私の子」と呼んでおられるということです。日本語には「自分の血を分けた子ども」という表現がありますが、神さまから見て私たちは、神さまがご自分のいのちを注いだ子どもなのです。
この「神さまからの義」はもう満たされています。
しかし、満たされなければならない「義」があります。それは、私たち人間が「神さまに愛された子どもである」という真実を受け取って出会うという「人間からの義」です。その義が満たされなければなりません。それはいっぱいにならなければならないのです。
もしかしたら私たちは、将来への不安や憤り、悩み、他のさまざまなものに満たされているかもしれません。しかし、「神に愛された子どもである」という真実の出会いに満たされなければならないのです。それをイエスさまは、「神の義が満たされることは、すべての人間のためにふさわしい」と言っておられるのです。
神さまは私たちを「愛する子」と呼び、ご自分のいのちを私たち一人ひとりにすでに注いでしまっておられるのです。そして、その愛に出会うことは、すべての人間のためにふさわしいのです。
しかし、私たちにはそのことができません。神さまは人間の中におられるのに、人間はその神さまの中にいることができず、神ではないものに心を奪われて、いつも神さまの前にお留守なのです。
そんな人間の中に神さまを満たしてくださるただ一人のお方がイエス・キリストです。それが今日の洗礼の出来事なのです。「これは私の愛する子、私の心に適(かな)う者」(17節)という神の声に「はい」と答えて、その神さまの中にいっぱいに満ちて生きてくださったのがイエスさまです。
十字架上の死がその完成です。そして、その始まりが今日の出来事、イエスの洗礼でした。
では、私たちがいただいた洗礼、あるいは私たちがこれからいただこうとしている洗礼とは何でしょうか。
それは「聖霊」による洗礼です。水を注がれるとき、私たち一人ひとりの中に「聖霊」、すなわちイエス・キリストの霊が注がれるのです。
そのイエスさまの洗礼とは、ご自身のためだけではありませんでした。洗礼を通して、ご自分が神さまから向けられたまなざしを人に向けるための洗礼。「あなたは神の子」という神のまなざしを、人々に伝わるまなざしにするために必要な洗礼でした。
だから私たちも、自分のためだけに洗礼を受けるのではありません。洗礼をいただいて、イエス・キリストの霊が私たちと同じ体の向きで生きるなら、そのお方の光を働かせることが私たちの洗礼の意味なのです。
「そのお方」とは、相手の中にある神の存在を照らし出す光です。
イエス・キリストの洗礼が、私たちがいただいた洗礼、私たちがいただくことになっている洗礼の意味を深く教えているのです。
このあと、「洗礼の約束の更新」があります。私たち自身が受けた洗礼を思い、またこれからいただくことになっている洗礼を思い、一緒にお祈りをしましょう。