神さまが共におられることを言い広める
2016年6月26日 年間第13主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
わたしに従いなさい
ルカ9:51~62
イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。(ルカ9:51)
ここは、ルカの福音書全体の中で特別な意味のある箇所になります。ルカの福音書は1章から24章まであり、その中で9章51節から19章44節までは、イエスがエルサレムに向かって旅をする「旅の段落」と呼ばれる箇所になります。今日はその旅の始まりの箇所です。
エルサレムに向かう旅とは、十字架にあげられ、死と復活に向かう旅です。物見遊山の旅ではなく、「天にあげられるという旅」になります。その旅の始まりにあたって、一緒に歩んでいく弟子たちに向かってお話しになられたというのが、今日の箇所の性格です。
天にあげられる時期が近づき、エルサレムに向かう決意を固められたとき、イエスさまは、ご自分一人が天にあげられるとお考えになったのではありません。
「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)
すべての人を一人残らず、父である神さまへの一致のもとに引き上げるというお望みをはっきりとさせて、エルサレムに向かう決意を固められたのです。
イエスさまは、ご自分の中に父である神さまが一緒にいてくださることをご存じでした。そして、すべての人間の中にも父である神さまが一緒にいてくださることをご存じでした。何とかそのことにすべての人を出会わせて、父である神さまとの一致に引き入れるため、イエスさまはエルサレムへの道を歩まれました。
道を歩んでいくとき、イエスさまは一緒に行く者たちに一つの命令をしておられます。
「わたしに従いなさい」(59節)
「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」(60節)
言葉は二つですが、内容的には一つの命令です。そしてこれは、今日私たちがイエスさまから言われている命令でもあります。
「イエスさまに従う」とは、「イエスさまと一緒に生きる」ことであり、「神の国を言い広めること」です。「神の国を言い広める」とは、「神さまがあなたと一緒におられるんですよ。だから、その真実を生きるようにしなさい」と伝えることです。
さてルカは、このエルサレムに向かう旅をどう描いているかというと、「苦しみを通して栄光に入る道」としてです。今日の福音でいうと、「サマリア人の村に入った。しかし、村人はイエスを歓迎しなかった」とありますね(52~53節)。その道は、必ずしも人から歓迎されるわけではない道だということです。
そして、そういうサマリア人をヤコブとヨハネは、「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言いましたが(54節)、イエスさまはそれを戒められましたね。受け入れない人たちを焼き滅ぼしてしまうような道ではないのです。
イエスさまと一緒に歩く道が「苦しみを通して栄光に入る道」なのはどうしてでしょうか。それは、私たちの目に見える現実が、神さまが一緒にいてくださる現実であるのに、必ずしもそう思えることばかりではないからです。
「神さまがいてくださるなら、あんなことないはずだ。私はもっとこうあるはずだ」と思うかもしれません。思ったとおりにならない現実があります。でも、それにもかかわらず、愛である神さまは私たちと一緒にいてくださる、私たち一人ひとりのいのちをご自分のいのちとして生きてくださるお方です。だから、そのお方に信頼する。それが、苦しみを通して栄光に入る道だということなのだと思います。
今日の福音の後半で、イエスさまに「どこへでも従って参ります」と言った人がいますが(57節)、そこで描かれているイエスさまの反応は何だか「すげない」というか、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」なんて(60節)、血も涙もないというように感じる言葉でもあるように聞こえます。
でもイエスさまは、そんな言葉を通して、もっとその奥に、決して失ってはならない深い交わりがあることをお話しになりたかったのだと思うのです。「父である神さまが一緒にいてくださる。私たちのいのちを完全にご自分のいのちとして生きてくださる。そんな尊いいのちを2番や3番にしてはいけない」とおっしゃっているのだと思います。
「神の国を言い広める」というのは、「あなたの中に永遠のいのちである神さまが共にいて、この真実は何があっても決して失われない。死んでも失われない。そして、亡くなった父も、神さまと一緒に、そして私たちと一緒に生きるいのちになっているのです」と言うことです。
このことを私たちがそれぞれの歩みの中で、それぞれの言い方で、それぞれのやり方で伝えるようにと言われているんだと思います。