神さまが共におられる神秘(55)稲川圭三

聖霊と共に生きる

2016年5月15日 聖霊降臨の主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
聖霊があなたがたにすべてのことを教えてくださる
ヨハネ14:15~16、23b~26

今日は「聖霊降臨」の祭日を迎えています。

聖霊降臨は「教会の誕生日」と呼ばれる日です。それは、主イエス・キリストの霊である聖霊が注がれ、私たちの中に主イエスが立ち上がり、誕生するからです。

「教会」と訳されているのは、ギリシア語で「エクレシア」という言葉で、建物のことではなく、神に呼び集められた人々という意味です。聖霊によって私たちも、神の呼びかけに応えて生きる教会(エクレシア)として誕生します。

ところで今日は、イエスが「最後の晩餐」の席で愛する弟子たちに話した「告別説教」の箇所が読まれました。

ここにある「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」(ヨハネ14:24)という言葉には深い意味があります。なぜなら、私たち人間は、神さまの言葉を守ろうとしても守れないからです。

たとえばペトロは、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と豪語したのに、イエスが十字架にかけられた時、逃げてしまいました。人間の愛でイエスを愛していたけれど、守れなかったのです。

しかし、キリストの霊が私たちのところへ来るとき、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(ヨハネ14:23)とイエスさまはおっしゃいます。イエスは死んで復活し、ご自分の霊を注がれました。だから今日、キリストの霊は私たちの中にあります。

私たちはこの世にあって、いろいろな誘惑や悩み、苦しみに囲まれて生きています。私たちが弱い「人間」に立って生きるなら、自分や人の悪いところにしか目がいきません。あの人の欠点、足りないところ、嫌なところばかりを探すかもしれません。同時に、こんな自分の嫌なところばかり見つけるかもしれません。

しかし、共にいてくださるキリストに立つなら……。キリストは、人間の中に悪を見つけ出す方ではなく、どれほど悪や罪や誤りがあっても、人間の中には神さまの「いのち」があるその真実を見いだし、照らしてくださる方です。

だから、そのお方の霊に従って生きるなら、たとえ人の中に悪いところや過ち、弱さ、欠点があっても、その最も奥深くに神の「いのち」があることを見いだして生きるようにさせていただきます。同様に、自分に嫌なところや嫌いなところがあっても、「何で自分ってこうなんだろう」という思いがあっても、その最も奥深くに、愛である神さまが共にいてくださる真実に光を当てて生きるようになります。

この時、今日の福音の言葉が私たちの日々の生活に迫ってきます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」

神さまを愛して、神の言葉を守ることのできる「いのち」であるイエスの霊が私たちと一緒にいてくださいます。「守れない人間」に立つのではなく、「守ることができるイエス」に立つように。

「今日も私と一緒に生きようよ」、「生きて、相手の中に神の『いのち』を見いだして歩もうよ」。そういう招きと幸いへのお誘いを、聖霊がいつも働きかけてくだいます。

その言葉に従って生きるならば、「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(23節)と言われます。

一方、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」というところに行ってしまう時、「人間」に立ってしまう時、私たちはその中におられる神の「いのち」より、外側の欠点や足りないところ、弱さ、嫌なところばかりをあげつらって生きる「いのち」になってしまいます。そのとき、一緒にいてくださる聖霊は悲しむことになるのです。「悲しませずに生きるように」と呼びかけを受けています。

聖霊の呼びかけに応えて、聖霊と一緒に生きる時、私たちは教会になります。聖霊降臨は「教会の誕生日」です。

昨日、失敗してしまったかもしれません。でも、今日また新たに神さまは私たちの中に聖霊の「いのち」を送って、私たちの家を新しく教会として建てることがおできになります。たとえ昨日、駄目だったとしても、今日、新しい太陽を昇らせてくださったように、私たちを教会として立ち上がらせることがおできになります。そのことに信頼して、一緒に歩みますように。

今日、ミサにあずかれずにいる人が大勢おられます。また、ミサのことを知らない人だってたくさんおられます。「あの方こそ、ミサにあずかったらいいのになあ」と思われる方もいらっしゃると思います。その方々のことも思いながら、ご一緒にこのごミサをおささげし、すべての人の中に神の「いのち」があるという真実を伝える「教会」になっていくことができますように、祈りたいと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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