キリストの平和
2016年5月1日 復活節第6主日
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
聖霊が、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる
ヨハネ14:23~29
今日の福音の中心は、場所的にも意味的にも、この言葉だと言えます。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(ヨハネ14:27)
ミサの中でもこの言葉が唱えられますね。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。私たちの罪ではなく、教会の信仰をかえりみ……」
「わたしの平和」とは「キリストの平和」です。今日の福音全体が、キリストが与える平和がどういうものなのかを説明しています。
「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」(29節)。私が与える「平和」が何であるかを前もって言っておく。今日の福音をよく読むと、「キリストの平和」とはこういうものなのだと分かるように、あらかじめ説明しておられるのです。
「キリストの平和」とは、ご自分が体験しておられた、父である神さまとの一致のことです。誰も奪うことのできない一致。その完全な一致を、今は分からないが、事が起こった時に分かるように、あらかじめ弟子たちに話しておられるのです。
おん父とキリストの一致を、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(24節)と言っておられます。これは、「父である神を愛している私は、父の言葉を守る」という体験が前提にあります。
そして、その一致をもっと具体的に説明すると、「あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」(24節)ということになります。つまり、「あなたがたが聞いている私のこの言葉は、私と一緒にいる父のものなのだ」とおっしゃるのです。
イエスさまは言われます。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」(23節)。つまり、イエスさまを愛する人は、イエスさまの言葉と一緒の向きで生きるようになるということです。
そして、言われます。「わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」(同)。父である神さまはその人を愛して、その人と一緒の向きで生きてくださるのです。イエスさまと父である神さまが、イエスを愛する人のところに行って、一緒に住むということになります。
これが、イエスさまが「事が起こったときに、あなたがたが信じるようにと、今、その事の起こる前に話しておく」という「交わりの内容」です。いうならば、自分の内にイエスさまがおられ、そのイエスさまの内に父である神がおられ、自分もイエスさまの内にいて、父である神さまの内にいて一緒に生きる。こんな交わりに入ることを「キリストの平和」というのだと思います。
そんなことを言われても、何だか分かりませんね。でも、そのことを理屈でなく、内側から分からせてくださる方が「聖霊」だよと、イエスさまは教えているのです。
「キリストの平和」とは、「この平和な気持ちを私から奪っていかないで」と、ぎゅっと抱きかかえて放さないようなものではなく、キリストと一緒の向きで生きるという平和です。すなわち、相手の人の中に神さまが一緒にいてくださる真実を見いだしていく平和なのです。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える」(27節)
私たちの今日の日の「今」は、イエスの死と復活がすでに実現している「今」ですから、もう事が起こった「今」です。
洗礼という恵みを通して聖霊をいただいている者は、その出会いを通して「キリストの平和」をいただいています。また、洗礼という出会いの恵みにあずかっていなくても、キリストを信じ、「あなたと一緒に生きたい」と望む方の中にキリストは聖霊を注いでくださいます。
だから、その「いのち」に結ばれて私たちがするべきことは、あの人この人に「平和」、すなわち神さまが一緒にいてくださる真実を認め、見いだすことです。
「キリストの平和」とは、自分の中に留めておくものではなく、仕舞っておくものではなく、使うためにいただくのです。「神が共におられる平和」をいただいたなら、その「平和」と一緒に生きるのです。そうでないなら、宝の持ち腐れ、タラントンのたとえ話で言う「怠け者の悪い僕(しもべ)」(マタイ25:26)になってしまいます。
そうではなく、いただいて使うために、私たちにキリストはご自分の平和をお与えになります。ですから、使って生きるようにしましょう。
私たちはミサから派遣されていく先で、出会う人の中に「キリストの平和」、すなわち神さまが一緒にいてくださる真実を告げ知らせる者となるよう、決意を新たにしましょう。
いただいて、土の中に埋めておくのは間違いです。それを使って生きるためにキリストは「平和」をお与えになります。そのことをご一緒にお祈りしましょう。