神さまが共におられる神秘(33)稲川圭三

平和の祈りは、怒ってしまいたくなる誘惑に乗らないこと

2016年1月3日 主の公現
(典礼歴C年に合わせ3年前の説教の再録)
私たちは東方から王を拝みに来た
マタイ2:1~12

「主の公現」の祭日を迎えています。今日はまた、新年最初の主日になります。

「主の公現」は、主である方の栄光がすべての人に現されたという意味です。キリストの光は全世界に現されました。そしてその「光」は、宣べ伝えられなければならない光です。

「おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言の成就として、イエスさまは生まれました。「インマヌエル」とは、ヘブライ語で「神は我々と共におられる」という意味です(1:22~23)。

今日の福音の出来事は、その「インマヌエル」、「神はわれわれと共におられる」という方に東方の学者たちが礼拝しに来たということが書かれています。

イエスさまは、そのご生涯の全部で「神さまは私たちと共にいてくださる」という真実を照らし出してくださる光です。その光がすべての人に対して現れたのが、今日の「公現」のお祝いの中身です。

でも、それだけではありません。「私たち一人ひとりの中に神のいのちがある」という真実を照らしてくださる光でもあります。

詩編130編にこういう言葉があります。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦(ゆる)しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(3~4節)

神さまは正しいお方です。その神さまが私たちの過ちを指摘されるなら、私たちは誰ひとり神さまの前に立つことはできません。

しかし神さまは、私たちに間違いがあっても、「私たちと共にいてくださる」という「赦し」であり「真実」です。それを照らし出してくださるのが、キリストの「光」なのです。

私は神父になってずっと、自分の中に間違いがあってはならないと考えてきました。でも、自分の罪や弱さを通して分からせていただいたことがあります。人間にとって大切なのは、自分の中に間違いがあっても、最も奥深くにあるのは神さまの愛なのだという、「神さまの愛に向かう眼差し」だということです。

人間にとって必要なことは、自分の正しさに向かう眼差しではなく、悪があるにもかかわらず、「神さまが共にいてくださる」という神さまのいつくしみに向かう眼差しだと思います。

憐れみ深い父は、私たちの誤りにもかかわらず、共にいてくださるお方です。だから私たちも、「憐れみ深い者になりなさい」と教えられます。それは、相手の中の悪を暴(あば)き出すことではなく、その相手に「神さまのいのちが共にある」という真実を認める眼差しです。

新しい1年の始まりにあたり、全世界の平和のために祈りたいと思います。

テロや戦争で自分の愛する家族を失った人が、家族を殺した者たちの中にも「神のいのちがある」と認めることはきわめて難しい。人間には不可能なことです。でも、イエスさまが私たちと共にいてくださるがゆえに、そのお方の眼差しでお互いに赦し合うことができる。

復讐を心に決めて生きるのでなく、相手を恨んで一生を送るのでなく、絶望に陥って時が止まってしまった人生を歩むのでなく、「そんな相手の中にもインマヌエルの神がおられる」という、はかりがたい神の愛があることを認めて、祈って生きることができるように祈りたいと思います。

でも、そのためには犠牲が必要です。今、自分を傷つけてくる人の中にも「神のいのちがある」という真実をキリストの眼差しを通して認めるという自分自身の犠牲なしには、より大きな苦しみの中にある人への祈りはできないからです。

「怒ってしまいたい。罵(ののし)ってしまいたい」という思いが私たちにはあるかもしれません。でも、それを選ばない。より大きな憎しみへの誘惑に立たされている人たちへの連帯のために、「怒ってしまおう、無視してしまおう、傷つけるひとことを言ってしまおう」という誘惑に同意しない。それが、私たちができる「平和の祈り」の根本ではないかなと思います。

また、攻撃の矛先(ほこさき)を自分に向けるのも同じことです。「落ち込んでしまおう。もう自分なんて駄目だって思ってしまおう。生きている意味なんてないという思いの中に入ってしまおう」という、もっともらしい誘惑にも乗らない。私たちがそれを選ばないことを通して、相手を助け、またそれによって私たちも助けられる。これが「善の連鎖」です。そういうことをしなければならないのではないかなと思いました。

「主の公現」の祭日に、すべての人々に「インマヌエル」(神が我々と共におられる)という光が現されました。私たちも、人間の中に神が共におられる真実を認め、人にもそれを告げて生きる歩みとなっていきますように。私たち一人ひとりがキリストの光を現す者になっていきますように。ご一緒にお祈りしたいと思います。

稲川 圭三

稲川 圭三

稲川圭三(いながわ・けいぞう) 1959年、東京都江東区生まれ。千葉県習志野市で9年間、公立小学校の教員をする。97年、カトリック司祭に叙階。西千葉教会助任、青梅・あきる野教会主任兼任、八王子教会主任を経て、現在、麻布教会主任司祭。著書に『神さまからの贈りもの』『神様のみこころ』『365日全部が神さまの日』『イエスさまといつもいっしょ』『神父さまおしえて』(サンパウロ)『神さまが共にいてくださる神秘』『神さまのまなざしを生きる』『ただひとつの中心は神さま』(雑賀編集工房)。

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