信じるとは、一緒に生きること
2017年5月14日 復活節第5主日ミサ
(典礼歴A年に合わせ3年前の説教の再録)
私は道であり真理であり命である
ヨハネ14:1~12
今日のイエスさまは弟子たちに「心を騒がせてはならない」とおっしゃいます(ヨハネ14:1)。
どうして弟子たちは心を騒がせていたかというと、イエスさまがその前に「苦しみを受けて殺され、3日目に復活する」と言っておられたからです。また、「私の行く所に、あなたは今付いて来ることはできない」(ヨハネ13:36)と言われたからです。弟子たちにはそのことの意味が分かりませんでした。それで心を騒がせていました。
私たちはどういう時に心を騒がせるのでしょうか。自分が頼りにしていたもの、自分が信頼を置いていたものが取り去られる時に心を騒がせることになるでしょう。
新しい場所に行った時に、「自分が信頼を置いていた考えがここでは通用しないのか」と感じ、心がざわめくかもしれません。
今まで自分が信条のようにして生きてきたことが、ここでは人に理解されない。そんな時に心を騒がせるかもしれません。
あるいは、自分がいのちのように慕っていた人が亡くなってしまう時、心を騒がせるかもしれません。
すべてを捨ててついてきたイエスさまが取り去られる時が来ると聞かされて、弟子たちは心を騒がせたに違いありません。しかし、イエスさまはおっしゃいます。
「心を騒がせてはならない。神を信じ、また私を信じなさい」(1節)
ここで「私」というイエスさまはどこにおられるのですか。
イエスさまは、神がご自分と共におられることを知り、ご自分も神の内にいて一緒に生きておられました。そこにすべての人をお招きになりたいのです。そのためにイエスさまは十字架の上で死なれ、父のもとに行かれ、栄光を受け、そして戻ってきて、「私のいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)という一致に招いてくださるのです。
イエスさまは、「ご自分と父である神との一致」がどういうものであるかを今日の福音で説明しています。そして、「いま私がいるところに、あなたがたも共にいるようになるよ」とおっしゃっているのです。
イエスさまは、「ご自分と父である神との一致」をいろいろな言い方で説明なさっています。
「私は道であり、真理であり、命である。私を通らなければ、誰も父のもとに行くことができない」(6節)。それは「私を通って父のもとに行く」ということですよね。
また、「あなたがたが私を知っているなら、私の父をも知るであろう」(7節)とおっしゃいます。「知る」というのはギリシア語で「ギノスコー」という単語です。この言葉は、「体験を通して知る」という意味合いです。「イエスを知って、イエスと共に生きるならば、イエスと共に生きておられる父を体験によって知ることになるんだよ」ということになります。
「今、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのだ」(7節)と言われた時、フィリポは、「私たちに御父をお示しください。そうすれば満足します」と言いました(8節)。それは「一目だけでも会わせてください、それで十分ですから」というようなニュアンスの言葉です。
するとイエスは言われます。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、私が分かっていないのか。私を見た者は、父を見たのだ」(9節)。そして、「私が父の内におり、父が私の内におられることを、信じないのか」と言われるのです(10節)。外面が似ているということではなく、相互に一致しておられる関係だと言われているのです。
でも「一致」というと、「御父とイエスさまは顔と顔を向き合わせて抱き合っているみたいな感じで一致しておられるのだろうか」と思われるかもしれませんよね。しかし、それに対しても「違うよ」と言うために、「私があなたがたに言う言葉は、勝手に話しているのではない。父が私の内におり、その業を行っておられるのである」とおっしゃいます(10節)。
つまり、顔と顔を向き合わせて抱き合っているのではなく、一緒に働いてくださる方なのです。そういう一致でイエスさまが私たちの中にいてくださるので、イエスさまと一緒に生き、父である神さまと一緒に働く者となることを「信じる」というのだと思います。
私たち一人ひとりの中にもう道であるイエスさまが復活しておられます。
最近の車にはカーナビがついているでしょう。カーナビっていうのは、行く道を示してくれますよね。でも、カーナビが運転してくれるわけではないのですよね。
これは取るに足りないたとえですけれど、道であるイエスさまは私たちと一緒にいてくださいます。ですから、私たちもそのお方と一緒に生きる時、その歩みそのものが、いのちであるお方と結ばれて生きる真理の道となっていくのではないでしょうか。
ご一緒にお祈りしましょう。