教会には専門用語がたくさんあります。「交わり」「恵み」「救い」「みことば」「福音」「ハレルヤ」など、日常的には使わないけれど、教会の中では自然と出てくる言葉はいくらでもあるでしょう。そういった言葉は、教会の文化を形成しています。専門用語を使うことそのものがダメと言うつもりはありません。日常では使わない特殊な用語ができ上がるということは、それだけ信仰者のアイデンティティを形成する上で重要な考え方が、その言葉に込められているわけですから。専門用語を多く使うと、何だか不思議と教会っぽく感じてきます。
けれども、教会の中でのみ通用する言葉が増えれば増えるほど、教会の中と外で必要以上に大きな違いを感じることになってしまいます。教会の外へ出ていく信仰者が使う言葉が、私たちの生きる社会で使われている言葉と完全に違うものになってしまうならば、コミュニケーションがうまくいくはずはありません。クリスチャン同士の会話が、過度に日常語とかけ離れた言葉であふれていたならば、とても閉鎖的なコミュニティを作り出してしまうことでしょう。だからこそ、牧師たちをはじめ、キリストを信じる人々は、教会文化の中で何げなく使ってしまう言葉を、教会の外でも使う日常的な言葉に意識的に変換し続ける努力が必要です。そんなこと、私がここに書かなくとも、何度も耳にしてきたことでしょう。けれども、分かりきっている話であるはずなのに、私たちはそれが上手にできずにいます。
小山ナザレン教会は20ページほどの冊子を月報として毎月発行しています。Monthly Report of the Church of the Nazarene in Oyamaを略して、『MORENO(モレノ)』という名称で教会内外に読まれています。小山教会を訪れるクリスチャンの方に月報をお渡しすると、「教会っぽくなくて良い」という感想をよくいただきます。私も小山教会の月報を初めて読んだ時、そう感じた者の1人です。教会が発行する教会らしくない冊子であることが、この月報が長年愛されている理由なのかなと私は思っています。
月報の中に、教会的な要素がまったくないわけではありません。牧師が担当する「牧師室より」には、教会での出来事や牧師の日常などが綴られます。誌上説教も、役員会の報告も、会計報告、教会のイベントの写真も掲載されています。
それでも「教会っぽくない」と言われるのは、月報の大半の部分において、教会のメンバーが自由に好きなことを書いているからでしょう。旅行記、書評、詩、近況報告、エッセイ、楽曲レビューなど、いろいろなジャンルの文章が並びます。信仰の証しというジャンルの文章はほとんど見かけません。信仰的に思えることを無理に書く必要がないからこそ、教会のメンバーが寄稿しやすい月報になっているのでしょう。教会のメンバーが普段どんなことを考え、どんなことを経験しているかをこの月報を通じて、お互いに知ることができ、教会の交わりが深まっていっている気がします。最近では、子どもから大人まで、たくさんの人たちが率先して表紙の絵を描いてくれます。
教会っぽくないように見えるこの月報は、多様な人々の参与を喜ぶ教会の姿を映し出しているように思えます。また、教会の内と外を橋渡ししようとする教会のこれまでの努力のようにも感じます。教会らしさを求めるのではなく、教会らしくないことを教会の中で分かち合っていくことは、私たちの全生涯が神が共にいて、キリストが関わり、聖霊が導いてくださる場所にほかならないという信仰を告白しているかのようです。私たちの信仰が教会の中に閉じこもるものでない限り、コレカラもこの月報は教会っぽくない姿を保ち続けていくと思います。
いなば・もとつぐ 1988年茨城県生まれ。日本大学、日本ナザレン神学校卒業後、数年の牧会期間を経て休職し、アジア・パシフィック・ナザレン神学院(フィリピン)とナザレン・セオロジカル・カレッジ(オーストラリア)に留学。修士号取得後、日本ナザレン教団小山教会に着任。趣味は将棋観戦とネット対局。