ある職場の友人から言われました。「あの元上司は、悪気があって腹ぺこさんを異動させたのではないよ」。それはわかっています。おそらく善意です。でも、悪意がないから余計やっかいなのです。本人は悪気はないから。悪気がなかったらどうやって責めることができましょう!
私の現在の上司も、悪気のない人です。根っからいい人だと思います。ただし、やっていることはハラスメントです。悪気がないから手に負えない。いや「手に負えない」という言葉は、上の者が下の者に使う言葉であって、下の者である私が上司に使ったらおそらく日本語としてはおかしいのですが、しかし「手に負えない」という表現がもっともぴったり来ます。もう手に負えない。なぜなら本人は悪気はないから。
私の両親もそうです。「悪気はなかった」。それを言われたら、もうこちらから何も言うことはなくなります。しかし、あの両親は、私を精神的に「虐待」してきたのです。「心配」という虐待。この子(私)がこのまま何もできない子だったらどうしよう。そう思ってひたすら叱り続けたのです。悪気はなかったかもしれないが、そこに親の愛はなかった。いま思えばですけど……。
私が3年くらい前、43歳くらいのとき、親に「ぼくは親から愛されたことがない」と言ったら、親は激昂して「そんなことはない! どれほど心配したことか」と言われました。だからその「心配」が「虐待」だったと言っているのに! 以来、私は親に「あなたがたはぼくを愛さなかった。いまも愛していない」とは言わなくなりました。いま、金銭的援助を受けているので縁を切っていませんが、ほんとうに金銭的援助さえなければ、とっくに親子の縁を切っているだろうと思います。「とっく」というか、この1年くらいでですね。いくらあの親たちに言ってもわからない、自分たちの「罪」の大きさに気づくこともないし、私が生まれてから彼らは1ミリも変わっていない、ということを、この半年か1年くらいで痛感するようになったからです。もう「親子やり直し」は永遠に無理だ、と気づいてしまいました。残念です。ただし金銭的援助を受けている関係で、縁を切れないでいるだけです。
彼らは、自分たちの長男(私)は、塾にもどこにも行かずに現役で東大に行ったことを誇っています。なにかにつけ言っているということは、それは自慢なのだと思います。しかし、私は小学校の5、6年のころ「プリント学習」という通信添削を受けていました。整理整頓をはじめ、身の周りのことがなにもできない上に、学業もパッとしない私を「心配」した両親は、私に通信添削を受けさせたのです。それは実際にはまったく役に立たなかったですし、私が中学に入って急に成績がよくなったことは、プリント学習の効き目ではなく、授業が「論理的に」なったことによります(私は「空気」は読めない代わりに「論理」だと理解できます。小学校の授業は論理的でなかったということですね)。
ですから役には立っていませんが、たしかに私は通信添削の経験がある。それから、塾に行ったことがないこともウソ。近所の英語の個人塾みたいなところに行っていたことがあります。そこは、驚くほどなにも教えてくれないところで、授業はひたすら崩壊していて、なにも得るところはなかったのですが、父が中学時代に英語で苦労したらしく「英語は学ぶべきだ!」みたいに言って、母が見つけてきた塾だったのかもしれません。たしかに、まったく役には立っていない塾です。しかし、まぎれもなく私は塾に通った経験があるのです。だから、私が塾もなにも行かずに東大に受かったと言い切るのは、ウソになります。とにかく私の両親(とくに母)はウソつきです。都合よく事実をねじ曲げている。それも、おそらく悪気はない。ただ、都合よく、忘れているのだと思われます。
悪気のないもので悪いものの最たるものは、戦争かもしれません。「大義がなければ戦争はできない」と言いますが、「自分たちは正しい」と思っているからこそ、相手をやっつける話になり、戦争になると思われるのです。戦争も「悪気はない」。むしろ自分たちは正しいと思っています。お互いに。これは、他国と他国の例だと客観的に見られてわかりやすいですが、片方が自国(日本)だと、とたんにわかりにくくなります。なにしろ自分たちは正しいと思っていますからね。
とにかく、悪気のないハラスメントほどやっかいなものはないと思っております。みんな悪気はないのだ。自分たちが悪いことをしているつもりはないのだ。むしろ良いことをしていると思っているのだ。だからやっかいなのだ!
腹ぺこ 発達障害の当事者。偶然に偶然が重なってプロテスタント教会で洗礼を受ける。東京大学大学院博士課程単位取得退学。クラシック音楽オタク。好きな言葉は「見ないで信じる者は幸いである」。