〝君なのか、俺が失った女性の顔は。〟
燦々と降りそそぐ陽射しのもと青年は、こちらを見つめる女の頬へ掌を添える。その瞬間、切符を見せろという車掌の声に起こされる。映画『墓泥棒と失われた女神』は、こうして物語の舞台となる北イタリア・トスカーナ地方の田舎町を、主人公の青年アーサーが訪れる場面から始まる。2018年『幸福なラザロ』で、現代イタリア映画を代表する新鋭監督の一人として脚光を浴びたアリーチェ・ロルヴァケルによる、コロナ禍以降初の最新長編である。
青年アーサーは、地中の遺跡をみつける特殊な才能をもつ英国人、つまり異邦人としてその田舎駅へと降り立つ。旧知の人々からはイタリア語読みでアルトゥールと呼ばれる青年は、埋蔵品に目がなく欲深さを隠そうとしない盗掘仲間の中にあっていつもどこか浮いている。失踪した婚約者ベニアミーナの行方をつねに気にする内向的な気質ゆえだが、ベニアミーナの実家である屋敷に住み込んで歌の勉強をつづける娘〝イタリア〟は、そんな心ここにあらずの風情を醸すアーサーと次第に惹かれ合う。しかし仲間たちと酔って騒いだある夜、いつのまにか迷い込んでいた墓蹟で彼が盗掘に従事することを知り、イタリアはアーサーをこう咎める。
「死んだ人から盗むなんて良くない。生きてる人のための物じゃない」
シチリア島の対岸にあたるイタリア半島最南端レッジョ・カラブリア地方の風景描写も麗しい2011年のデビュー長編『天空のからだ』において、1982年生まれの俊英アリーチェ・ロルヴァケル監督は、カトリックの堅信式に心ならずも臨む少女を通して現代人の魂の孤立を瑞々しく切り取った。つづく2014年作『夏をゆく人々』で彼女は北イタリア・トスカーナの養蜂農家を描いて伝統と文明との衝突へ着目し、イタリア中部の僻村を舞台とする2018年作『幸福なラザロ』では、農園主が小作人制度の廃止を知らせず人々を働かせつづけるという実際の詐欺事件をベースとして、都市と農村の対照構図を鮮やかな寓話へと昇華させた。
『幸福なラザロ』でカンヌ映画祭脚本賞に輝くほか、世界的な注目を浴びながら猖獗を極めるコロナ禍により新作長編の着手を阻まれていた彼女が、共同監督によるドキュメンタリー作品や複数の珠玉短篇を発表しながら6年越しにたどり着いた本作『墓泥棒と失われた女神』では、舞台を再びトスカーナへと戻し、紀元前8世紀頃まで起源を遡る古代エトルリア文明との直の接続を図る。物語へ即して具体的に言えば、主人公アーサーが〝失われた女神〟像頭部の秘密を握り、やがて秘密はアーサー個人の生きる根拠へと連なりゆく。
初長編『天空のからだ』で信仰と今日の孤独を、『夏をゆく人々』で伝統と文明の衝突を、『幸福なラザロ』でカトリック精神と近現代的個人の対立を描いたロルヴァケルが、本作『墓泥棒と失われた女神』でローマ文明以前に栄えた古代エトルリアを呼び起こす意図は一貫して明確だ。都市生活を暮らす現代人が無意識のうち絡め取られる資本主義社会の罠、物質的功利主義の奴隷と化す定めからの解放への道筋を、ロルヴァケルは繊細に炙りだす。
墓蹟で青年アーサーを咎める娘の名が〝イタリア〟であり、ブラジル人俳優カロル・ドゥアルテが好演していることも象徴的だ。後半で屋敷から追い出されるイタリアもまた青年アーサーと同じく現代世界をさすらう異邦人のひとりにほかならず、ウクライナやシリア、パレスチナやアフガニスタンなど戦災等の理由で母国から離れた難民たちとその本質を共有する、寄る辺なき孤独な魂を抱える個人に過ぎない。
ロルヴァケルが共同監督した2021年の長編ドキュメンタリー『Futura』は、コロナ禍を生き抜く若者たちに取材してイタリア国内を回った労作だが、シネマ・ヴェリテ式に素顔を写し撮る試みの下地へかつて鬼才ピエル・パオロ・パゾリーニが、同じようにイタリア各地を取材した1964年の秀作『愛の集会』が感覚されるとき、娘の名がイタリアであることの含蓄は一層深くなる。
屋敷から放逐された娘〝イタリア〟は終盤で、子どもらや盗掘団の女性メンバーと共に駅舎廃墟を占拠してつかのまの楽園を築きあげる。権力にも常識にも縛られない自由を謳歌するかのように描かれる盗掘団の奔放な面々もまた、盗掘品の売価に縛られ、市場の論理に魂を拘束された奴隷に過ぎず、その横顔は現代を生きる人間の普遍をいずれも体現する。後半で離散する彼ら盗掘団の中において唯一の女性メンバーだけが、娘イタリアらと駅舎暮らしを始める描写も興味深い。
考えてみればアーサーが身を寄せる元婚約者の邸宅は、イザベラ・ロッセリーニ演じるその母の独居を、住み込みの家政婦を兼任する歌の生徒としてイタリアが助ける形で描かれ、また女神像をめぐって盗掘団と渡り合う実務的な美術商には名優アルバ・ロルヴァケルが扮するなど、盗掘団や偽警察など群れとして描かれがちな男たちとのコントラストは際立っている。
名匠ロベルト・ロッセリーニとイングリッド・バーグマンの娘でありマーティン・スコセッシとの婚姻歴のあるイザベラ・ロッセリーニは、映画史を体現するようなその存在感を『墓泥棒と失われた女神』劇中でも遺憾なく発揮しており、戦時下でクリスマス前のカトリック系女子校を舞台とする2022年の短編「無垢の瞳」(Le pupille)を含む過半のアリーチェ・ロルヴァケル監督作へ出演しつづけ監督の実姉でもあるアルバと共に、その作品世界へ質実なリアリティと強度をもたらしている。
こうして思い巡らせるとき、現代イタリア社会の地面を穿ちキリスト教到来以前の古代史的世界へと接続する主人公の名アーサーが含み持つ奥行きもあらためてみえてくる。ローマン・ケルト系のブリトン人を率いてサクソン人の侵攻へ抗ったとされるアーサー王はブリタニア統合の象徴となり、騎士道物語を通じた人気は汎ヨーロッパ性を獲得したが、英仏やイベリア、プロイセン・ドイツに比べても政治的統一の遅れたイタリア地域において、風土的アイデンティティの統合はその善し悪しを別としてさらに遅れた。
『墓泥棒と失われた女神』撮影にあたりロルヴァケルがインスピレーションを受けた作品として挙げるロッセリーニ『イタリア旅行』(1953年)、パゾリーニ『アッカトーネ』(1961年)、フェリーニ『フェリーニのローマ』(1972年)などはこの意味からも、「今日におけるイタリアとは何か」という問いを鋭く突きつける点で、ロルヴァケルの製作姿勢といずれも深く響き合う。
ロルヴァケル第2長編『夏をゆく人々』と同じ2014年の短編『カンツォーネ』は、イタリア語圏における《歌》の位置づけを映像人類学的にリサーチする企みであったし、プラダの女性ブランド ミュウミュウに依頼されて製作した2015年の短編『De Djess』や、新興のDisney+(ディズニープラス)配給短編としては初めてカンヌ国際映画祭や米国アカデミー賞へノミネートされた2022年作『無垢の瞳』では共に、実姉アルバ・ロルヴァケル演じる修道院長がイタリアにおけるカトリックの封建的/家父長的因習性を、女性だからこそ余計に際立たせる形で体現してみせる。
草道の奥へ独居する老人たちの手つきや奔放な子らに注ぐ陽の温もりを古いカメラで映しだす2020年の短編『4つの道』(Quattro Strade)はこの意味で、コロナ禍で大都市がロックアウトに入る中でロルヴァケルゆえにこそ可能であった、知的に研ぎ澄まされた詩性の輪郭として評価できる。人間の危機を感覚した彼女は、むしろ自らを空しくしてレンズにすべてを委ねることで、その〝イタリア的〟というしかない郷土性をともなう身体の回復を試みているように映る。
さて中世ブリテン島のアーサー王伝説において聖杯を求め、辺境を探検した騎士たちのように青年アーサーは異国イタリアの地中を自らの手足で探索し、地底に残された遺蹟の昏がりへとさらなる潜航を試みる。
それは近代的個人の合理や感性を枠付けるキリスト教倫理からの、いわば一時離脱への旅路であり、ここにおいて『墓泥棒と失われた女神』の地底に穿たれた墓穴は、アウグスティヌスやトマス・アクィナスらが地歩を築いたカトリック精神のさらなる古層から、建国神話における古代ローマの建設者ロムルスとレムスの双子を育てた狼の視線が現代都市の絢爛を貫いてこちらを見据える幕切れも印象的な傑作『幸福なラザロ』の深奥へと接続する。
ロルヴァケルの映画作家としての秀逸さはこうして、ウイルスの蔓延を前に扉を閉ざすほかは為す術のない中世以来の変わらぬ現実、旧覇権国の軍事侵攻を止められない暴虐優位の現実を身も蓋もない日常とする観客ひとりひとりの心の襞へ、穏やかな希望の萌芽をそうとは気づかせない繊細な手つきで植え込む巧さにある。
そこではしばしば、すでに述べたようにロルヴァケルが私淑してきたロッセリーニやパゾリーニ、フェリーニやアントニオーニら巨匠たちにより蓄積されたイタリア映画名作群の構図が呼び起こされる。重要なギミックとして登場する〝赤い糸〟を日本の伝説から着想したという彼女が『墓泥棒と失われた女神』の終盤で描きだす、地底の闇なかで立ち尽くす青年アーサーを導く光の筋はカンダタを救いあげる蜘蛛の糸そのものであり、ロルヴァケルの神話的感受性の豊かさには毎度ながら圧倒される。
(ライター 藤本徹)
『墓泥棒と失われた女神』 “La chimera”
公式サイト:https://www.bitters.co.jp/hakadorobou/
2024年7月19日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開中
【参考文献】
『墓泥棒と失われた女神 プレス資料』 ビターズ・エンド 2024年
【関連過去記事】
【本稿筆者による関連作品別ツイート】
『墓泥棒と失われた女神』🪦
“君なのか、俺が失った女性の顔は”
遺跡探索の才もつ異邦人青年は、お宝に目がない盗掘仲間からどこか浮いている。生者のためには彫られてない女神が彼をみつめる。
アリーチェ・ロルヴァケル新作、古代エトルリアの深淵から汲み上げる視線の透度に陶酔する。共振する。 https://t.co/QZ49SR7Gpt pic.twitter.com/hXybV3CQcw
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『夏をゆく人々』🐝2014
トスカーナの養蜂一家に暮らす長女の、TV業界への素朴な憧れを描くアリーチェ・ロルヴァケル第2長編。🍯
モニカ・ベルッチの醸す軽薄さが絶妙。ミツバチのささやき🇪🇸の少女視点フォーカス、ハニーランド🇲🇰の訪問者が齎す撹乱も想起される濃密時空。 https://t.co/6lzZ7j22jl pic.twitter.com/kS8HKoq0eN
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『幸福なラザロ』
小作制度の廃止を隠し村人を働かせ続けた侯爵夫人の実話を元とする本作が放つ、芳醇たる映像感覚と濃厚な寓話性に圧倒される。一人の愛の告白を皆が分かち祝福するイタリア近世の農村風景から現代都市の殺伐への一気の滑落を、不可視の狼が静かに見守る。深い宗教的余韻に充ちた秀作 pic.twitter.com/lYpecyTFpL— pherim (@pherim) April 16, 2019
“Quattro Strade”(Four Roads)
『幸福なラザロ』のアリーチェ・ロルヴァケル新作短篇。
コロナ禍の今、私にできないことをレンズがしてくれる。そうして草道の奥へ独居する老人たちの手つきや奔放な子らに注ぐ陽の温もりを、古いカメラで期限切れフィルムへ映しとる知的に研ぎ澄まされた詩性の輪郭。 pic.twitter.com/yCpOFmVLY8
— pherim (@pherim) June 12, 2021
『アッカトーネ』🇮🇹’61
ヒモ男が転落末期へといたる、救済御免のパゾリーニ初監督作。郊外貧民窟(borgata)描写の各所で響くマタイ受難曲の屹立。
素人演技の横溢や、風紀紊乱の迫真場面と白昼夢カットのブツ切り接続など、素か狙ってるのか不明の演出が延々つづき、いかにも天才の初発っぽくて好き。 pic.twitter.com/9AEKbcublW
— pherim (@pherim) April 20, 2022
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