「今、なぜあなたは大声で叫ぶのか。/王がいないからなのか」(ミカ書4章9節)という聖書の言葉がある。ここからボンヘッファーは「いくら奇妙なことに思われようと、神はそのような叫びには耳を貸さないのである」と語る。
叫ぶとは「ここにいる」という存在証明だ。毎日、人はいろんなものに自分の存在がかき消されそうになる。確かに心臓は動いているが、息が詰まりそうな局面に何度も陥れられる。だけどそんな時、一人でも自分の心を知り、支えてくれる誰かがいれば、それだけで明日も生きてみようと思える。
神を信じるとは、まさしくそういった自分の弱さを認めることなのかもしれない。
神を信じている人は困難に直面すると、「そうだ。この状況は自分の信仰が足りなかったのだ。今こそ懺悔と悔い改めの時だ」とひらめく。そして自分自身への反省や非難、罪への抵抗を試み、今回はうまくいくに違いない、今日か明日から神が助けてくれるだろうと考えるのではないだろうか。
しかし、ボンヘッファーの視点は少し違う。それは困難自体ではなく、困難をどう見つめるかという点で僕たちに示唆を与える。反省や自己非難は「かたくなな心や、意気消沈した心から出てくる懺悔」であり、「このようにしてもたらされる新しい始まりは、常に期待はずれに終わる」というのだ。
ここで大切なのは、あなたがどのような状況かではなく「あなたのもとに王がいないのか」という問いかけだという。そしてこれこそ、「いや、王はすでにあなたのもとにいる」という強烈な神の宣言に他ならないのだ。
あなたは「どうしたら自分が変わることができるのか、どうしたら自分というものを、あるいは自分の罪を克服できるのか」と尋ねるかもしれない。その答えはこうである。王があなたのそばにいるのだということを認識する時のみ、あなたは変わることができるであろう。
この言葉の意味について、一つの出来事を通して気づかされたことがある。2年前のクリスマス、ある一人暮らしのおじいさんのもとを訪ねた。彼はクリスチャンだけど10年前に負った怪我のせいで、ずっと教会に行けず、介護を受けながら自宅で一人生活をしていた。
その方のもとへ先輩の牧師とともに小さなクリスマス礼拝をささげに行った。自宅に入ると早々、小綺麗だけどどこか生活感のない家に違和感を感じた。すると、おじいさんは言った。「自分はもう一人で孤独だから、あと1年で死ぬんだ」。なんと、彼は自分が死ぬ時にせめて迷惑をかけまいと部屋を整理していたのだ。続けて彼は、「若い時からずっと誰かに申し訳ないと思いながら生きてきた。自分がいるだけで迷惑じゃないか、そして神様も困ってるんじゃないか」と語った。
聞けば、この人は先立った奥さんの世話が十分にできなかったのではという後悔や、介護で負担をかけている子どもたちへの申し訳なさから、ふさぎ込みがちになっていた。そして何より、苦労の連続から自分を助けてくれる神も仏もいないんじゃないかという孤独感を抱えていたのだった。
誰しも、生涯真っ白に綺麗な状態で生き続けることは不可能だ。必ずどこかで失敗や傷を負うし、ずっと負い続けている人もいるだろう。それ自体は、経験として次の糧にすることもできる。でも、ある時にそれは自分の心の奥底にまで沈み込み、生きることすら許さない状況にまで追い込むことだってある。
そしてその重圧が重なっていくと、人は次第に孤独を覚えるようになる。「どうせ誰も分かってくれない」「俺だけが人生でこんなに苦しいんだ」とばかりに、重い鉄の柵が自分を囲み、責め立てる。
こんな時に「大丈夫。あなたは一人じゃないですよ」と何の根拠もなく励ましたり、「じゃあ、お祈りしましょう」と逃げてしまいがちなのが牧師だ。僕自身、この時の重い空気に耐えきれず思わず口にしそうになった。だけど、そんな言葉一つで目の前が晴れるほど人生は甘くない。小さな部屋の中で3人、ただ深くうなだれるしかなかった。
そんな時、先輩の牧師がすっと聖書を開き、礼拝を始めた。説教はイエスの生まれた場面から。これまで何十回と聞いてきた物語だ。だけど、その牧師は力強くこう語った。
キリストは病院も宿もなく、馬小屋で生まれざるをえなかった。周りに医者はおらず、生まれてくる子どもへ動揺する両親、そして異教の博士と羊飼いに囲まれていた。私たちの救い主は、生まれた時からこの世界で一番カオスな、そして孤独の中にいた。クリスマスとは祝うものじゃない。あなたの最も深い心の奥底に、今日もキリストがいると気づくことだ。
僕は、この時ハッと気づかされた。キリストはどこか遠くではなく、いま自分の奥底にある見たくない暗闇や、誰にも言えない孤独の中にこそいるんだと。そしてクリスマスとはただの誕生を祝う日ではなく、まさに今自分に迫り来る物語なんだと。
「信じる」とか「信仰」という時、僕たちは自分の生活習慣や、何か信心の強さみたいなものへ無意識的に注目してしまう。しかし、聖書が常に僕たちへ語るのは「ここにいる神」の存在だ。
神は弱い。そして、孤独とカオスの中でこそ人の形を取った。人々が「王」として祭り上げようとした神の子は、どの時代の、どの世界の「王」よりもみすぼらしかった。
でもそんな姿に、僕はどこか安心感を覚える。誰よりも弱いからこそ僕たちの弱さも「それ分かるよ」と笑いながら、時に一緒に泣きながら隣にいてくれる気がする。カオスの中で生まれたからこそ、誰からも理解されない僕たちの悩みや困難も、「それは辛いな」と見捨てず歩幅を合わせて歩いてくれるのだ。
クリスマスとは、この「王」であるイエス・キリストを迎え入れることに他ならない。
15分ほどの礼拝が終わった。おじいさんは目を瞑りながら僕に尋ねた。「私の心の奥底にもキリストは来てくれますか?」――僕は言った。「来てくれるかじゃなくて、もういますよ」。
「じゃあ、私は一人じゃないんですね」。心の底から僕は答えた。「大丈夫あなたは一人じゃないですよ」
目を開いて彼は言った。「牧師さん方、私1年後に死にたいって言ったけど、1年と1日だけ生きてみますよ。また来年のクリスマスも来てくださいね」
孤独も悩みもすべて忘れよう、吹き飛ばそうなんて言わない。ただ孤独にも悩みにも、その真ん中に立つキリストを覚えよう。クリスマスの物語とは、あなたのための物語であり、この知らせを聞いたあなたはもう一人じゃないんだ。
1年前のクリスマスは別の奉仕が入っており、今年のイースターの際、久しぶりにおじいさんのもとへ会いに行った。「クリスマス、待ってたんだよ!」と話す彼の目には、「死にたい」「孤独だ」と嘆いていた以前の影はもうなかった。
「今年のクリスマスは一緒にお祝いしましょうね!」
そう約束しながら一緒に祈った。
引用
D・ボンヘッファー 著/浅見一羊、大崎節郎、佐藤司郎、生原 優ほか 訳『ボンヘッファー説教全集3』(新教出版社、2004年)
ふくしま・しんたろう 牧師を志す伝道師。大阪生まれ。研究テーマはボンヘッファーで、2020年に「D・ボンヘッファーによる『服従』思想について––その起点と神学をめぐって」で優秀卒業研究賞。またこれまで屋外学童や刑務所クリスマス礼拝などの運営に携わる。同志社大学神学部で学んだ弟とともに、教団・教派の垣根を超えたエキュメニカル運動と社会で生きづらさを覚える人たちへの支援について日夜議論している。将来の夢は学童期の子どもたちへの支援と、ドイツの教会での牧師。趣味はヴァイオリン演奏とアイドル(つばきファクトリー)の応援。