ドイツのアンゲラ・メルケル首相がドイツ福音主義教会大会などで語った講演など16編を収録したスピーチ集『わたしの信仰──キリスト者として行動する』(新教出版社)が10月25日に出版された。原書は2017年に出版され、1995~2017年までの講演が収められている。
訳者は、ベルンハルト・シュリンク『朗読者』(新潮社)やヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』(光文社古典新訳文庫)、ライナー・マリア・リルケ『マルテの手記』(同)を翻訳した松永美穂(まつなが・みほ)氏。キリスト者だ。
そのタイトルを拾うと、「奇跡を求めない」、「信仰する心を養う」、「神はあやつり人形を望まれませんでした」、「宗教改革の精神を世界のなかに持ち込む」、「わたしたちのヨーロッパ人としてのアイデンティティは大部分においてキリスト教的なのです」、「地を従わせよ」と、クリスチャンにとって興味深いものが並んでいる。
英国のテリーザ・メイ首相が誕生するまでは、欧州各国首脳が居並ぶ中で一人、カラフルなジャケットに身を包んだ女性リーダーとしてよく知られてきたメルケル氏。その容貌から「ドイツのお母さん」とも呼ばれる。
つい先日、メルケル氏率いる与党キリスト教民主同盟(CDU)が二つの州議会選挙で大敗したことを受け、党首のメルケル氏が、「12月の党首選には出馬しない。首相の職も、2021年の任期満了をもって退く」と記者会見で発表したばかり。これまで彼女がどのようなキリスト教信仰を背景に、難民政策などで揺れるドイツの舵(かじ)取りをしてきたのか、改めて振り返るいい機会だ。
たとえば彼女は、2005年福音主義教会大会でマラキ書の聖書講解をし、最後に、「『ぼくたちは何のためにこの世にいるのか』と子どもに聞かれたとき、答えるのがどんなに難しくても答えをはぐらかさないで」という大会テーマソングの歌詞を取り上げる。「これがわたしたちの使命です。キリスト者として──教会でも政治の場でも、職場や家庭でも──こうした問いの答えをはぐらかすことは許されません。わたしはこのことを、政治家として自覚しつつ申し上げます。これは、神と人の前で果たすべき責任なのです。共に新しい道を進む勇気を持ちましょう!一緒に歩んでいくことが重要です。キリスト者として、わたしたちはいずれにせよ勇気を持つことができます。なぜならわたしたちの行く先には、『正義の太陽』が約束されているのですから」(74頁)
また、2001年の同大会では「出血の止まらない女」(マルコ5章)を取り上げ、次のように語る。「どうしても説明できない多くのことが残されるでしょう。……まさにそのことを、わたしたちはキリスト者として受け容(い)れ、認めるのです。説明のできないこと、説明したくないこと、説明を許されないことがあるということ──それによってわたしたちには、他者をありのまま受け容れる責任が与えられるのです。そのようにして、わたしたちは謙虚な気持ちを持てるのです──謙虚とは無気力の謂(いい)ではなく、無限を知ったことから生まれるポジティブで、希望に溢れて生を形成する感覚です。最も実存的な状況においてイエスが示す厳格さ、明瞭さ、素早さ、そして言葉の少なさは模範的です。『子どもに食べ物を与えなさい』、『あなたの信仰があなたを救ったのです』、『恐れるな』……この空間はめそめそしたり、泣いたり、わめいたり、嘆いたりするためのものではなく、責任ある人生形成のためにあるのです」(53~54頁)
世俗化するこの世界においてなお、こうした信仰を語れる政治家がいる。この日本でも志あるクリスチャンの政治家が生まれることを祈りたくなる書だ。
メルケル氏は東独で牧師・神学者の長女として育ち、今もベルリンにあるルーテル派教会の会員。1954年、ドイツ北部のハンブルクに生まれた。「アンゲラ」とは「天使」(エンジェル、アンジェラ)という意味の女性名。生後間もなく、父ホルストが牧師不足の東ドイツに赴任することになり、両親と共に東ドイツへ移住する。そして、東西ドイツが統一される90年、36歳まで共産主義下の東ドイツで暮らした。
ゲーテやニーチェなどを輩出したライプチヒ大学で物理学を専攻し、後に博士号を取得した。在学中の23歳で学生結婚をするが、4年後に離婚。東ベルリンの科学アカデミーに就職し、そこで知り合った現在の夫ヨアヒム・ザウアー氏(フンボルト大学教授)と98年に再婚している。
メルケル氏が政界に転じるのは89年、ベルリンの壁が崩壊してドイツが再統一される直前のこと。翌年、CDUから連邦議会選挙に出馬して初当選する。メルケル氏はコール首相の後ろ盾を得て、91年には第4次コール政権の婦人・青年担当大臣に初当選ながら抜擢される。94年の第5次コール政権では環境・自然保護・原子力安全担当大臣に就任。98年、コール政権が終わりを告げると、下野したCDUの幹事長となる。そして、2000年には党首となり、05年、歴代最年少の51歳で第8代ドイツ連邦共和国首相に就任した。ドイツ史上初の東独出身の女性首相誕生だ。以後13年にわたり、ドイツ政界のみならずEUにおける最も影響力ある政治家として指導力を発揮し続けている。戦後のドイツで総選挙に4度勝って長期政権を築いたのは、ヘルムート・コール(在任1982~98年、16年間)とメルケル氏(同2005~、現在13年間)だけ。現在、64歳。
15年、メルケル氏は、100万人以上の難民の受け入れを決めた。しかしその後、アラブや北アフリカからの難民が起こしたケルン大晦日集団性暴行事件なども影響して支持率は急落、メルケル氏は最大の政治的危機にさらされる。一方、ナチスによるホロコーストの十字架を背負うドイツ国民にとって、「人道国家」として称賛を受けたことは大きな誇りでもあった。
また、物理学者として原子力の安全性と必要性を主張してきた原発推進派だったが、福島原発事故後、メルケル氏は「日本の出来事から分かるのは、科学的にあり得ないとされたことが起こるということだ」と語り、政策を180度転換した。「問題は私たちが変われるかどうかではなく、どれだけ素早く変化できるかどうかだ」として、事故の3カ月後には連邦議会で、2022年末までに原発完全廃止を決定している。
アンゲラ・メルケル著
フォルカー・レージング編/松永美穂訳
『わたしの信仰──キリスト者として行動する』
新教出版社
2018年10月25日初版発行
四六判・240頁
2300円(税別)