名門校ザ・タレント・キャンパスに新任の栄養学講師が赴任する。「断食茶」をプロデュースし、「意識的な食事」を提唱するミス・ノヴァクだ。少食は心身をより強く健康にするだけでなく、大量消費社会の束縛からも解放し、病気を退け寿命さえ伸ばす、と彼女は確信に満ちて語る。一部の生徒はノヴァクに心酔し、教えられるままモノ・ダイエットへ、そして不食へと進む。ノヴァクが彼らにもたらすのは幸福か、それとも破滅か。
『クラブゼロ』は宗教的とも言える食のイデオロギーと、思春期の子どもたちの揺れ動く心理と、彼らを案じる親たちの潜在的な恐怖を絡めた寓意的スリラー映画。ドイツの伝承『ハーメルンの笛吹き男』を下敷きとしている。原色を多用した明るい画面とリズミカルなドラム音の組み合わせは一見楽しげだが、物語が進むに連れて逆に不穏さを増していく。
本作は、ノヴァクの視点に立てば試練に立ち向かう信仰者の顛末となる。彼女の食のイデオロギーはもはや〝信仰〟であり、事実祭壇に向かって祈る場面でそれが女神信仰の一種だと分かる。信仰だからこそ彼女は解雇を恐れず語り続け、生徒との関係が不適切だと糾弾されても揺るがない。最後に彼女がたどり着く場所は現実とも虚構とも知れないが、信仰者として満ち足りた心情であろうことは想像に難くない。
「才能(タレント)」を名前に冠する学校で「可能性を秘めている(There is more in you)」というフレーズに毎日触れる生徒たちの、「優れた者にならなければならない」というプレッシャーはいかほどか。少なくともノヴァクの授業を選択した子どもたちはその圧力に潰されかけ、親たちもどうしたら良いか分からない状態だ。そこに救世主のように現れたノヴァクは子どもたちにとって、初めて正面から向き合ってケアしてくれた大人だったかもしれない。彼らが心酔したのはノヴァクの食のイデオロギーでなく、そんな彼女自身だったように思える。
親たちからすれば、子どもたちをより良い方向へ軌道修正するために呼んだノヴァクに、逆に子どもたちを奪われた形となる。しかし親たちが軌道修正したかったのが、本当に自分の子どもだったかどうか怪しい。彼らが求めたのは体重をしっかり管理できるラグナであり、摂食障害でないエルサであり、糖尿病でないフレッドであるからだ。目の前にいる子どもでなく、理想の子ども像を追い求めるのは見当違いでしかない。
そうした態度が最も露骨なのがエルサの父親だ。エルサが食事を摂らないのを否認し、怒りをぶつけ、それでもうまくいかないと分かるとノヴァクと取り引きする。その過程はアメリカの精神科医キューブラー・ロスが提唱した死の受容過程(否認、怒り、取り引き、抑うつ、受容)と途中まで一致する。しかし父親の態度が変わらない限り、受容の域に到達する見込みは薄い。
子どもたちがある計画を実行に移すのは、奇しくもクリスマス・イブ。イエス・キリストの誕生に自分たちの新たな一歩を重ね合わせたようにも見える。他にも皆で輪になって文言を唱える場面や、目を閉じて瞑想する場面など、本作は宗教的なモチーフで彩られている(「最後の晩餐」に見立てた場面もある)。食というテーマそのものも宗教と密接だ。例えばキリスト教プロテスタントでは定期的にパンとぶどう酒を聖餐として皆であずかり、信仰を確認し、コミュニティの結束を更新する。食べることが信仰の表明となり、実践となるのだ。
ノヴァクはそれを逆転させ、食べないことで信仰を実践し、子どもたちを導く。一番懐疑的だったベンが言う。「今まで(大量消費社会に)洗脳されてたことにやっと気づいた」と。冷静に見ればそれは一つの洗脳からまた別の洗脳に移行しただけかもしれない。けれど少なくとも、彼は本作冒頭で欠けていたものを得ることができたし、それは不幸なこととは言い切れない。
そうやって変化していく子どもたちと違い、終始変わらないのが親たちだ。どれだけ右往左往しても子どもたちに対して無策であり続ける。エンドロールに至るまでそれを徹底的に描くシニカルさは、いかにも物議を醸すテーマ設定で知られるジェシカ・ハウスナー監督らしい。
(ライター・河島文成)
『クラブゼロ』
12月6日(金)新宿武蔵野館ほか全国公開
配給:クロックワークス
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