浅野淳博さん「新しいパウロの視点で分断の時代を癒やしていく」 第39回キリスト教文化講演会

 

ジェイムズ・D・G・ダン著『使徒パウロの神学』(教文館)が3月に刊行され、翻訳者である浅野淳博(あさの・あつひろ)さんが同月29日、「旧(ふる)くも新たなパウロの視点──伝統・啓示・宣教のタペストリ」と題して講演を行った。これは第39回となるキリスト教文化講演会(主催:教文館)で、教文館ウェンライト・ホール(東京都中央区)には約100人が集まった。

浅野淳博さん=3月29日、教文館ウェンライト・ホール(東京都中央区)で

浅野さんは関西学院大学教授で、「異邦人の使徒」と呼ばれるパウロとその書簡を研究している。1960年、島根県生まれ。明治大学を卒業後、米国のフラー神学校で修士課程、オックスフォード大学で博士課程を修了。著書に『NTJ新約聖書注解 ガラテヤ書簡』(日本キリスト教団出版局)、共著に『新約聖書解釈の手引き』(同)などがある。

これまでパウロについては、ユダヤ教対キリスト教という視点が主流だった。しかし、パウロはもともとユダヤ教社会にしっかり根を下ろしており、それがダマスコで復活のキリストと出会った体験により律法と出会い直し、宇宙観が新たにされたというのが「新たな視点」だ。そして、ユダヤ教伝統と回心、宣教地という3層の対話が、パウロを異邦人宣教へと突き動かしたという。

パウロが考える「救済」の本質はまず、永遠の契約に約束された祝福が成就すること。「アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された“霊”を信仰によって受けるためでした」(ガラテヤ3:14)

そして、喪失された創造秩序が回復されること。「狼は小羊と共に宿り、豹(ひょう)は子山羊(やぎ)と共に伏す。……乳飲み子は毒蛇の穴に戯(たわむ)れ、幼子は蝮(まむし)の巣に手を入れる……」(イザヤ11:6〜9)。パウロは「救済」を、神と被造物との関係性の中で語っているのだ。

「パウロは『キリストへの信仰(ピスティス・クリストゥ)』(ガラテヤ2:16)という言葉を、神と人との関係性といった文脈で使っています。『ピスティス』はもともと信頼性のこと。『義』も、神と人との良好な関係性を指し示す語です。『信仰』と訳されてきたピスティスと『義』の両方が契約の中で使われていることを踏まえて、『ピスティス・クリストゥ』をどう訳すか、考える必要があります」

講演終了後には質疑応答の時間も設けられ、会場からは次々に手が挙がった。

次に、回心体験によって再定義されたパウロの宇宙観が終末論の中でどう現れてくるかが語られた。終末とは線や点ではなく長い期間であり、「キリストの再臨」(セカンド・アドベント)の時に終末は完成するというのが現在の見方。今の時代と来るべき時代が重なる時代、暗闇と光がせめぎ合っている期間で、「終末的緊張」という表現を使う。そこでは、罪の支配と神の秩序がせめぎ合い、当事者として問題に向き合う機会でもある。

せめぎ合いの場で鍵となるのが、「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」(ローマ8:22)こと。そこには、被造物の贖(あがな)いという文脈における「人類の贖い」と、人類の贖いという文脈での「個人の贖い」がある。同時に、社会と共存する可能性を終末的緊張の中で導き出すことができる。

「この社会の不条理を憂(うれ)いているのは、良識ある人たちも同じ。その人たちと社会で共働する可能性を私たちは持っています。そのとき私たちがキリストのかたちをとった奉仕をしていくなら、それは宣教につながります」

ジェイムズ・D・G・ダン著、浅野淳博訳『使徒パウロの神学』(画像:教文館提供)

『使徒パウロの神学』の特徴は、終末的緊張におけるもう一つのせめぎ合いの場としてイスラエルを捉えていること。「イスラエルから出た者が皆、イスラエル人ということにはならない」(ローマ9:6)とあるが、それは「イスラエルでユダヤ人の一部が救われる」という単純なことを言っているのではない。「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです」(同11:25〜26)とあるように、すべてのイスラエルが救われるとパウロは述べているのだ。

「ダン教授は『すべての異邦人よ、主をたたえよ』(ローマ15:10〜11)という聖句を引用し、『それはキリスト教神学にとって革新的な出来事となり、ユダヤ人とキリスト者との対話に新たな推進力を与える』と、エキュメニカルに近い言説で語っています。つまり、現代の分断された状況をキリストの福音には癒やす力があるとはっきり述べているのです」

終末的緊張の一部である教会もまた、キリストにある一致やビジョンの共有ができない力が働き、分断を招いている。

「やがて『神のシャローム(平和)』を体験をする時が来ますが、それで安心するのではなく、今この場で教会がキリストにある一致を体験できるよう、一歩一歩進んでいくことが大切です。それが終末的緊張という中で考えていかなければならないことではないでしょうか」

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