こんにちは!パダワン青木です。
この原稿が記事としてアップされている頃には、太平洋の向こう側のお友達の国では、次期大統領が決まっている(はず)。今回は確信を持ってそう言えないのにはいろいろわけがありますが、とにかく、4年に一度の「王様選び」に狂喜乱舞する彼らの姿は、「コロナ禍」なんて言葉は全く関係ないかのよう。まさかフ〇ースの力で細菌を蹴散らすことができるなんて本気で信じている輩(ともがら)を生み出す国(ジェダイ教ってあるんですよ!)ですから、「信仰があればどんな危険も恐れるに足らず!」と言うくらいのことは、全然想定内です。
さて、そんなこの国の4年に一度のイベントに必ず登場するのが「聖書」です。大統領になった人が、その上に片方の手を置いて、もう一方を軽く挙げ、そして宣誓します。この光景は、見慣れてしまえばなんてことないのですが、私たちの国でこんなことが起こったら、そりゃ蜂の巣をつついたような大騒ぎになること請け合いです!だって考えてみてください。日本の総理大臣が、般若心経の上に手を置いて任命されるなんて姿、私たちに想像できますか?ありえないでしょ。そんなあり得ないことを平気で行える国家、それが太平洋の向こう側にいるお友達の国、アメリカなんです。
それには深いわけがあります。アメリカっていう国は、人口の4分の3がキリスト教徒なんです。考えてみてください。10人いて、その中の7人から8人が常に同じ考え方をする人たちだとしたら、多数決を採った場合、彼らの言うことが通ってしまうでしょ?これが「アメリカがキリスト教国である」という実態です。とはいえ、キリスト教と一口に言っても様々な教派があります。カトリックとプロテスタントの違いは当たり前のこととして、同じプロテスタント内にも、長老派だのバプテスト派だの、「何たらコミュニティ」みたいなちょっと教会らしくない名前を冠する集団まで、多くの「諸教派」が存在しています。でも、そんな彼らが全員首を垂れ、恭(うやうや)しい態度で向き合わざるを得ないのが「聖書」という書物なんです。
今、すごいことを言ったんですが、気が付きました?もう一度、あえて強調して言いますね。
恭(うやうや)しい態度で向き合わざるを得ないのが「聖書という書物」なんです。
聖書は本です。そんな当たり前のことを!と思われた方?それはあまりに「聖書」を知らなすぎます。確かに今は、誰でも手に入る書物ですが、その本質は、「単なる書物」なんて決して言えない歴史を持っているんです。この聖書を巡っては、文字通り「血で血を洗う争い」が世界の各地で頻発したという歴史があります。
よく「キリスト教って愛を説く宗教でしょ?」と言われますが、そんな甘っちょろい考えをお持ちのあなた、ぜひ聖書を読んでみてください。特に旧約聖書の前半部分。そこには「女子供も殺せ!」だの「オレ以外の神を持ったら、孫の代まで呪ってやる!」だの、そんな禍々(まがまが)しい物語が頻発しているのです。
中には、ちょっとキリスト教のことを聞きかじっている輩(ともがら)もいて、「いやいや、それは旧約聖書のことでしょ。新約聖書になるとイエス・キリストが出て来て、そんな悪しき時代からの救いを説いていますよ」などと、そんな腑抜(ふぬ)けたことを訳知り顔で訴えるでしょう。いえいえ、イエス・キリストさんも相当なものですから。「俺について来たいと言うなら、家族と縁切りせぇ!」と言ってますし、「俺はあんたらの家族、親子関係を剣で裂くためにやって来たんやぞ!」と恫喝(どうかつ)まがいの発言もしています。
そう。聖書っていう言い方だと、「聖なる書物」となりますが、決してそんなきれいごとばかりが書いてあるわけではない。近親相姦もあるし、五寸釘を額に打ち付けようと付け狙うトチ狂った女性リーダーも出てくる。目はえぐられるし、首は飛ぶし、新約聖書のラストを飾る「ヨハネの黙示録」に至っては、スター●ォーズも真っ青の善と悪の戦いが展開する。永井豪のデビルマンのような世界観が聖書にはある。
で、これをキリスト教信者たちは、「単なる書物」とは到底考えていませんでした。これこそが真理であり、神からの啓示であり、これから起こることなのだ!と捉えていたのです。ドリカムのはるか上を行く「未来予想図」を描いていたわけです!
よく言われる「宗教間の争い」についていうなら、キリスト教内教派同士の争いの元凶はこの聖書の解釈を巡ってでした。古くは「キリストって誰よ?」という問いであり、『聖霊って誰が注ぐの?』という、キリスト教徒でない者たちからするとどうでもいいようなマニアックな問いも大きな火種になりました。またイエス様の顔や十字架での姿などを視覚的に訴えることが、聖書が忌み嫌う「偶像」なのかどうかを巡っては、プロテスタント教会がカトリックと対立する以前に、カトリック内での対立となり、東西に教会が分裂する要因ともなっています。
そう、聖書をどう位置付けるか?は、単に「聖書ってナニよ?」という問いだけで収めることのできない、キリスト教徒のみならず、西洋社会全体にとっての「永遠のテーマ」だったんです。
またまた今回もハードルを上げに上げてしまいました。これをどう着地させるか?次回は『全集中!』でこの問題に取り組んでみたいと思います。(つづく)