いやいや、これは大変なことになってきましたよ。あと5か月足らずで「開催(予定)」の世紀の祭典、東京オリンピックとパラリンピックの組織委員会会長であった政治家がその座を辞任することになりました。そして(半ば)勝手に後任を指名したものだから、炎上に次ぐ大炎上!ツイッターや最近はやりのクラブハウスでも叩かれまくっている。果たしてこんな状況で、無事に開催できるのか?そんな不安が大いに頭をもたげてくる今日この頃。
一方、世界に目を向けてみるなら、昨年はアメリカで白人警官が黒人男性の首根っこを押さえこみ、窒息死させている。これに端を発し、「ブラック・ライブズ・マター(BLM)」の運動が一気に緊張感をもたらしたことは、記憶に新しい。私たちの世界には、今なお多くの違い、そして単に「差異」とか「区別」という域に留まらない、いわゆる「行き過ぎた差別」が横行している。このことに「見て見ぬふり」をすることが、もはやできない世の中になりつつあると言ってもいいだろう。
こういった現状を見る時、私たちの世界に蔓延している「異物排除」の性質は、いつなくなるのだろう?と空を見上げて深いため息をついてしまう。
よく教会では「神の愛」を説く。それはいい。しかし果たして聖書の世界観でこういった現実の軋轢(あつれき)や問題は解決するのだろうか?いや、もっと突っ込んだ言い方をするなら、聖書の世界観に、このような差別を「助長しかねない」ロジックは潜んでいないだろうか?
クリスチャンプレスで連載を開始して早数か月、いよいよ「危険水域」に突入します!(笑)
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聖書は奴隷制度肯定派?
よく言われることだが、聖書の中に「奴隷」という言葉が出てくる。これは紛れもない事実である。試しに「新改訳2017」で検索してみると、新旧両約聖書には206か所もある。そして極めつけはこれ!
コロサイ 3:22 奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。
映画『バース・オブ・ネーション』の中で、主人公の黒人奴隷(ネット・ターナー)に対し、同じ黒人の牧師が語り掛ける場面がある。その時引用したのがこの言葉である。これはアウトでしょ!こんなことを今、説教壇から(字義通りの意味で)牧師が語るなら、一発で解任ですね。他にも「奴隷制度擁護」ともとれる箇所はたくさんあるです。これを一体私たち現代のクリスチャンはどう捉えたらいいのでしょうか?(もちろん、答えは後編で!)
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聖書は「男尊女卑」の原型?
聖書の記者、特にパウロは絶対に五輪組織委員会長にはなれないだろう。だってこんな言葉を残しているのだから。
コリント人への手紙第一 14:35 もし何かを知りたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、女の人にとって恥ずかしいことなのです。
アウト!完全にアウト!
さらに福音書にだってすごい記述があるのを知ってますか?それは、5つのパンと2匹の魚で5千人を養った、というあの奇跡の箇所です。そこには男性だけでなく、当然女性や子どもがいたことも分かっています。しかし、福音書の原点とも言えるマルコでは、
マルコ6:44 パンを食べたのは、男が五千人であった。
となっています。おいおい、あんたの母ちゃんや子どもは食べなかったんかい!まあ、この部分は、「男性だけで」と書いてあるので、女性や子どもも食べたんですよ、ということを否定するものではないかもしれない。しかし、マルコを参考にして書かれたというマタイはアウトでしょ!こんな感じです。
マタイ14:21 食べた者は、女と子どもを除いて男五千人ほどであった。
なぜ「女と子どもを除」く必要があるのか?そう言われたら何も言い返せないでしょう。
こういったことから分かるように、現代の私たちの常識からいうなら、黒塗りにしてしまいたくなるような記述が聖書には多々見受けられるのである。
間接的な「差別」というなら、ユダヤ人とそれ以外の民(異邦人)への扱いもひどいもん。いくら大阪人で阪神ファンだからといって、憎っくきジャイアンツの長嶋茂雄氏を殺してしまえ!なんて本気で命ずる球団オーナーなんていないでしょ?ましてや、キリスト教は「愛の宗教」の最右翼ではありませんか!イエス・キリストは全人類の罪のために、その命すら惜しまず与えたもうたお方として、2000年経った今もなお人々のヒーローにしてメシア(救い主)なのだから。
それなら、一体この「聖書」の記述は一体?どうしてだれもこれを修正しなかったの?修正するのが恐れ多いなら、どうして「お蔵入り」させなかったんでしょう?
すべては、後編で!