前回、カインとアベルの物語を取りあげました。昔から日曜学校などで子どもたちにこの話をするとき(また、聞かされるとき)、どうしても「カイン悪人説」に偏(かたよ)ってしまう。中には聖書に書かれていないカインの悪行や、ダークサイドな心情まで「ねつ造」し、彼を悪者に落とし込もうとしている。
しかし「パダワン(ジェダイ見習いの意味)」を冠する私としては、ダークサイドに堕ちた(ように見える)カインであっても、あの名作「ジェダイの帰還(エピ6)」でダース・ベイダーが息子ルークによって救い出されたように、きっと報われると信じているのだ。
ということで、いよいよ解決編!「泣くな、カイン(後編)」をいってみよう!
前回、取りあげたいろんな説(カイン粗雑説、アベル優位説、職業優劣説など)は、いろんな立場で繰り返され、語り直されることで私たちの中に刷り込まれている。だからこれに代わる「新たな解釈」を提示しても、いつしか今までの説の一つに数え上げられてしまうのが関の山。そこで今回は、少し異なる次元で、今までにないアプローチをしてみよう。
いきなりだが、皆さんは「デッドプール(以下、こなれた感じで「デップ」と記す。)」という映画をご存知だろうか?(ホントにいきなり飛びました!)これはアメコミヒーローの中でも異色中の異色キャラ。とにかく人を小ばかにしたようなジョークをしゃべくりながら、目の前の敵をバッタバッタと殺傷していくヒーローである。現在2作目まで製作され、かなりの興行収益を上げている。まもなく3作目を撮影することになるとか。しかもマーベル傘下のキャラであるため、アベンジャースシリーズにも参画するとかしないとか…。
いずれにせよこのデップ、最大の特徴は「第四の壁」と呼ばれる観客と登場人物たちを隔てている「見えない壁」を打ち壊して語り掛けてくることである。例えば、ボスキャラと対峙しながらいきなり振り向いて「こんなヤツ早く倒して、彼女の膝枕でワインを飲みたいな」と語り出す。一体誰に喋っているのか?そう、彼は映画を観ている私たちにコメントし、ツッコミ、そしてボケているのだ!
この「第四の壁」とは、演劇用語らしく、第一の壁は地面、第二の壁が左右の幕、第三の壁が天井となる。ここまでは物語の世界、つまりその演劇を観に来ている人々にとっては「フィクションの世界」となる。そして「第四の壁」とは、観客と舞台との間にある境界線を表す。本来、これは誰も破ってはいけないはず。そうでないとフィクショナルな事物が現実世界に混在してしまい、せっかくの舞台上での物語が成立しなくなるからである。
ところがデップは、この壁をいとも簡単に壊して、こちら側に語り掛けてくる。これは映画としてはルール違反だ。しかし、観客はそこで語られるデップの言葉に笑い声を上げて反応してしまう(それくらい面白いらしい。日本語字幕ではそこまでは伝わらないが…)。つまり「観客を巻き込んで作り上げられる作品」ということになる。
ここからやっと話がカインに戻る。実は「カインとアベル」の物語も、デップと同じ効果が盛り込まれているのだ。つまり、「神はどうしてカインの捧げものに目を留められなかったのだろう?」という疑問を読者に持ってもらうことで、聖書が語られている世界に読者を呼び込もうとしているのだ。
世の中で評価されることは喜ばしいことだ。大学入試まではこの評価が「点数化」されている。だから「何点とれば、この大学には合格できる」という基準がはっきりしている。ところが就職活動以降、社会に出るとこの基準がほとんど示されなくなる。例えば「どうしてあの子は僕の告白には断っておいて、あいつと付き合ったのだろう?」とか、「A社の入社試験に落ちてしまったけど、友人のBは採用された。一体何が違うんだろう?」という疑問に、明確な回答は、そして解答はない。これが世の中である。
すると私たちは、このカインとアベルの物語を読んだ時、「どうしてカインはダメだったのか?」と思うなら、それによって自分がかつて感じた(そして今も感じている)世の中の「理不尽さ」を投影させていることになるのだ。
「どうしてアベルだけ?」と思ってしまうその次は「神は不公平だ」となるはず。これはいいかえれば「社会は不公平だ」「世の中は俺に厳しすぎる」という胸の内にある苦々しい想いを吐露していることになる。ここに聖書の「聖書」たる所以がある。聖書が「知恵の書」と言われるのはこの点だ。
そろそろ結論を述べよう。「なぜカインの捧げものに神は目を留められなかったのか?」その答えは「神のみぞ知る」である。え?それだけ?ってそうです。だってそんなことは、私たちでは知り得ないこと。そして、私たちが「なぜこんな目に遭うのか?」「何がいけなかったんだ!」という思いに対しても、社会や世の中は明確な回答を与えてくれはしない。
しかし聖書を通して語る神は、次のような言葉をカインに(そして不条理感を抱く聖書読者に)語っている。
4:6 そこで、主は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行なったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行なっていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
ここで神は「憤(いきどお)っていてはいけない」と忠告を与えている。なぜか?それは7節に理由がある。「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」
いつまでも不条理感に苛まれ、なぜ?どうして?と思い悩むなら、それは恨み、妬みとなり、罪を犯す結果となってしまう。そうなる前に、その怒りや不条理感を治めなさい。
最後の「治めるべきである」は、原文では「治められるから」とも読める。つまり、人はこのような不条理感を抜け出す道があるのだ、だから聖書を通してその知恵を得よ、と語り掛けているのである。
そう、泣くなカイン!君は悪くない。私たちのアバターとして「悪役」を担ってくれたのだ。言い換えるなら、私たちの罪の身代わりとなってくれたのだ。え?それってつまりイエス・〇リスト的な?!!
今回はここまで。