「困ったときの神頼み」よりも悪いこと【聖書からよもやま話597】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、エレミヤ書の15章です。よろしくどうぞ。

エレミヤ書 15章6節

お前はわたしを捨てた。 ――主のことば――
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

人は、何か苦難にあったとき、「神に見捨てられた」なんて言ったりします。しかし神様は言います。「そうじゃない。私が君を捨てたんじゃない。君が私を捨てたんだよ」と。クリスチャンにも、むしろクリスチャンにこそ「自分は神に見捨てられたのではないか」と思わずにいられないときがあります。「神様どうして?」と問いたくなることもありますし、聖書の中でも多くの人物が「神様どうして?」と問うています。イエス・キリストでさえ十字架の上で「神よ、私をお捨てになるのですか?」と問いました。それくらい、「神様に見捨てられる」というのは人間にとって長く深く問われ続けてきたテーマなんです。

しかしエレミヤ書での神様は、「違う。君が私を捨てたのだよ」と言います。胸に手を当ててみれば、思い当たる節があります。僕はこんなひどいことになる前に、ちゃんと神様に祈っただろうか。神様を無視して自分の意思とか努力とかで事態を乗り越えようとか、何かを成し遂げようとかしていたのではないか。それなのに、結果として失敗してみじめになってみたら「神様に見捨てられた」と言う。そんなのは神様の理不尽ではなく、むしろ僕の理不尽ではないか。と。

普段は無視して生きているくせに、何か悪いことがあったときだけ「神様どうして?」というのは、神様から見れば虫のいい話なのかもしれません。そんならまだ、困った時にだけやってきて「何とかしてください神様」と祈る、困ったときの神頼みの方がいくらかましかもしれません。

病気になっても「大したことないや」とか「医者は嫌いだ」とか言って病院に行かず、手遅れになってから「この病気を治せないなんて、医者なんてひどい奴らだ」なんて言うのは理不尽なことです。「税理士なんていらねーよ」と、さんざん我流でいい加減な税金処理をしていたのに、税務署に怒られてから税理士に泣きついて、どうにもならずに「税理士なんて役立たずだ」なんて言うのも理不尽なことです。同じように、普段は神様のことなんて気にもかけないくせに、何か悪いことが起こったら「神なんていないんだ」なんて言うのも理不尽なことです。

税理士に文句を言うなら普段から税理士と顧問契約をして、そのアドバイスに従うのが前提条件ですし、神様に文句を言うなら普段から祈って礼拝して、というのが前提条件です。「困ったときの神頼み」はまだマシです。「困ったときだけこきおろす」こんなことにならないように気をつけねばな、と思います。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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