主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
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聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、詩篇の106篇です。よろしくどうぞ。
詩篇 106篇6節
私たちは先祖と同じように罪を犯し不義を行い悪を行ってきました。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
日本人は「ご先祖さま」を大切にする文化を持っています。中国や韓国などのアジア諸国には似たような文化があったりしますが、欧米などのキリスト教圏ではあまりみられないものです。もちろん欧米であっても先祖に思いを馳せることはありますが、日本ほど「ご先祖様に申し訳ない」なんて思ったり、先祖のために宗教的儀式を行ったりということはありません。
日本人は心の中でどこか先祖を「立派な人」と思っています。それに比べて自分はなんとダメなのか、なんて思ったりします。しかしご先祖さまってそんなに立派な人でしょうか。実はそこに何の根拠もありません。ご先祖さまも僕たちと同じように、毎日ごはんを食べ、トイレをし、寝て、仕事に精を出し、遊び、ときどきちょっと悪いことをしたりして生きていたのではないでしょうか。むしろご先祖さまを変に「立派な人」にしてしまうことで、ご先祖さまへの親しみが失われて、共感することができなくなってしまうような気がします。
今日の聖書箇所には「私たちも先祖と同じように悪いことをしていました」と書いてあります。これは逆に言えば「先祖も私たちと同じように悪いことをしていました」ということでもあります。つまり「ご先祖さまだって、僕たちと同じようなものであって、大して立派だったわけではない」と言っているんです。ある意味ではご先祖さまをディスっているわけですけれども、僕はそこに日本人にはあまりない、ご先祖さまへの親しみや共感を感じるんです。
僕は子どもの頃からいわゆる「じいちゃんっ子」で、祖父が大好きでした。亡くなって今でも敬愛しています。でも葬儀のときに弔問にいらした方から「あの人は昔はこんなことをしてねー」なんて、昔の悪さだとか失敗だとかの話を聞いて、なんだか余計に祖父に親しみが湧きました。立派だっただけじゃねーんだな、じいちゃん。と。
先祖でも何でも、尊敬する人をあまりに尊敬しすぎて神格化してしまうと、親しみが薄れてしまうものです。それは本当に敬愛と呼べるでしょうか。大切にしていると言えるでしょうか。僕には子どもがいませんから、100年後200年後に僕のことを「ご先祖さま」と言ってくれる人はいないかもしれませんが、仮にいたとして、むやみやたらに「立派な人だった!清廉な人だった!」なんて言われたら、かえって居心地が悪そうです。それよりは、「ろくでもない人だったらしいけど、ちょっとはいいこともしたらしいよ」なんて言ってもらえたら一番嬉しいな、なんて思います。
じいちゃんもご先祖さまも、悪いことも失敗も、僕と同じくらいにしているのだ。そう思ったら、失敗に凹んでばかりもいられないな、ちょっとでも前に進むか、と思えます。そう思えた方が、じいちゃんからの、ご先祖さまからの「愛」を感じるんです。
それではまた次回。
主にありて。
MAROでした。
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