解決策が解決策であるとは限らない【聖書からよもやま話591】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は旧約聖書、ヨブ記の26章です。よろしくどうぞ。

ヨブ記26章2節

あなたは無力な者をどのように助けたのか。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ひどい災難にあったヨブのところに友人たちが見舞いにやってきました。しかし友人たちはヨブに説教を垂れたのでヨブは怒り出してしまいました。「君らはこの無力な僕を助けに来てくれたんじゃないのか!偉そうに説教ばっかり垂れやがって!」

困難や悲しみに直面している人に、どんな言葉をかけるべきか、どんな心配りをすべきかは今も昔もとても難しい問題です。ヨブの友人たちはいわゆる「アドバイス」をしたのですが、今まさに困難に直面している人にとってアドバイスというのは必ずしも適切な対応ではありません。たとえどんなに良い解決策を示されたとしても、その解決策を実行する気力さえもなかったり、まだ頭が混乱していて解決策を受け止められなかったりするからです。「対決より解決」なんて言葉が近頃の政界では流行していますが、ヨブの友人たちは解決策を早々に示そうとして反感を買い「解決から対決」ということになってしまいました。物事を解決に向かわせるには、まず当事者の現状によりそうことが必要です。

先日、僕はうどんの茹で汁を手にぶっかけて、ひどい火傷をしてしまいました。あまりに手が痛むのでAIさんに「火傷の対処法」を尋ねると「よく冷やして病院に行って薬を塗って保護すれば二週間くらいで治ります」との答えが返ってきました。たしかにこれは火傷に対する正しい解決策です。でもこれはそのときの僕が求めている答えではありませんでした。僕は今まさに痛くて仕方がない、この痛みに耐えかねていたのです。二週間後に治りますなんて言われても「今のこの痛みを何とかしてくれ!」としか思えなかったんです。その痛みに寄り添ってくれることなしに、実際に二週間後に治ったとしても「君は本当に辛い時に助けてくれなかったね」という感想しか抱けないかと思います。そもそも痛みのために手を冷水から出すことができなかったので「病院に行く」という解決策を実行することも難しかったんです。

ヨブもまさにそんな気持ちだったのかと思います。「君は無力な僕をどんな風に助けてくれたというんだい?」と。解決策というのは本当に辛い思いをしている人の癒しには必ずしもなりません。もちろんなることだってあるのですけどね。その人に今必要なものは何なのか、それはときには解決策かもしれませんし、そうではないかもしれません。タイミングを間違えて解決策を示し、それが採用されないと「俺がせっかくアドバイスしてやったのに!」と怒るようなことは避けなければならないと思います。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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