心は自分次第?いいえ、心こそどうにもなりません【聖書からよもやま話589】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、詩篇の51篇です。よろしくどうぞ。

詩篇 51篇10節

神よ 私にきよい心を造り
揺るがない霊を 私のうちに新しくしてください。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

ダビデは部下の妻と不倫をした上に、その部下をわざと戦死させるという大罪を犯しました。これはダビデの人生の中でも最大とも言える失敗でした。自らの大罪に気付いたダビデは悔やみ、神様に祈りました。祈り続けました。祈りまくりました。ごめんなさい、どうかどうか、ゆるしてくださいと。

その祈りの中でダビデは自分が罪を犯したことを告白したのですが、僕たち現代人がする祈りと少し違う点は「これから心を入れ替えます」とは言っていない点です。ダビデは「これから心を入れ替えます」ではなく、「私の心を入れ替えてください」と祈ったんです。つまりダビデは自分の心を清くすることは自分ではできないと、自らの無能をも告白したんです。

僕たちはつい自分の心は自分で改めることができるし、そうしなければならないと思い込んでしまいます。そして何度も同じ失敗を繰り返す自分に絶望して自己嫌悪に陥ってしまいます。「自分の心さえ改めることのできない自分はなんて無能なんだ」と。しかし聖書が教えているのは、人間には自分の心さえ自分では改めることができないという事実です。ダビデはその事実を知っていたので、自分のその無能さまでも神様の前にさらけ出して「そうか私の心をあなたが清めてください」と祈ったのでした。

現代を生きる僕たちは何かにつけて「自分の心は自分次第」と思っています。そして失敗すれば「自分の心が悪いのだ」と自分を責めます。しかしそうじゃないんです。人間は自分の心一つ、自由に扱うことはできないんです。身体が病気になったり怪我をしたりしたとき、人は誰しも回復を祈ります。自分の身体といえども自分の自由には回復させられないことを知っているからです。しかし心については病気になったり怪我をしたりしたとき、回復を祈ることはせず自分でなんとかしようとし、なんともならないと自分を責めます。身体の回復については自分を責めないのに、心の回復には自分を責めるんです。

むしろ身体よりも心こそ、自分では治せないものです。変えられないものです。車が壊れた時は自分で直そうとする人よりも修理場に出す人の方が多いでしょう。心も同じように、壊れた時は神様に修理を依頼して任せてしまう方がいいんです。それはいわゆるメンタルヘルス的な意味合いでだけではありません。悪いことをしてしまう、サボってしまう、人を傷つけてしまう、そういう心の欠けについても含んでの話です。

「心は自分次第」という思い込みから解放されたとき、人は本当に自分の罪を悔い改めることができますし、神様によって変えられるんです。「自分で変えよう、変わろう」と思っているうちは決して真の意味で変わることはありません。

それではまた次回。
主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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