「強くあれ雄々しくあれ」に潜む罠【聖書からよもやま話580】

主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。

本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は  旧約聖書、申命記の31章です。よろしくどうぞ。

申命記 31章5〜6節

あなたがたは、私が命じたすべての命令どおり、彼らに行わなければならない。強くあれ。雄々しくあれ。彼らを恐れてはならない。おののいてはならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

クリスチャンの中では今日の引用箇所の「強くあれ。雄々しくあれ。」というフレーズは非常に有名です。自分を励ますとき、勇気を奮い立たせたいとき、誰かを力付けたいとき、そんな場面でこのフレーズはよく使われます。しかし往々にして、この前後、特に前の文脈が無視されてしまっていることがあります。

たしかに神様は「強くあれ。雄々しくあれ。」とイスラエルの民を励ましているのですが、その前に「君たちは僕の言いつけどおりに働くのだよ。それをするにあたって、ひるんだり迷ったりしてはいけないよ。」と言っているんです。決して「いつでも強く、雄々しくあればなんでもできる。叶う」なんてことを言っているわけではありません。これは神様に与えられた神様の計画を実行するときに、迷ってはいけないという意味です。強く雄々しくあるためには神様の計画を正しく知り、その実現を確信していなくてはなりません。

ですからクリスチャンが神様の前で、あるいは神様の守りの中で、正しい形で強く雄々しくあるためには祈り、すなわち神様とのコミュニケーションが不可欠です。そのコミュニケーションなしにただ強く雄々しくあろうとするのは言わば蛮勇であって勇気ではありません。

古代ギリシアの哲学者、アリストテレスによれば、勇気というのは臆病と蛮勇の間にある中庸、つまり「適度な」状態であって、足りなすぎて臆病に陥っても、ありすぎて蛮勇に陥ってもいけません。過ぎたるは及ばざるがごとし。祈りなしの「強く雄々しく」の蛮勇は臆病と同じくらい価値のないものです。

強く雄々しく。人は誰しもそうありたいと願います。しかしそこには大きな落とし穴があるんです。強く雄々しくありたいと願うなら、まずは祈りが不可欠です。教会を強く雄々しく引っ張りたい、多くの人に強く雄々しく伝道したい。そんな思いが強くあればあるほど、祈りが求められます。仰々しく立派な祈りをする必要はありません。それよりも日々、こまめに日常の習慣として祈る。この習慣がある人こそが、本当に強く雄々しくあることができる人です。

反対に、悪魔はこの「強くあれ。雄々しくあれ」だけを抜き出して人を蛮勇に陥らせようと企みます。「ほら、聖書に立って強く雄々しくあれ、と書いてあるじゃないか。さぁ、君の願いを実現するために勇気をもって立ち上がれ」と、ちょっとかっこよく聞こえるフレーズで勇ましい誘惑をします。この誘惑を防ぐには日常的に祈るのが一番の対抗策です。正しい情報を日常的に仕入れている人は詐欺やデマにだまされにくくなります。それと同じように日常的に祈る人は悪魔の罠にハマりにくくなるんです。

勇ましい気持ちが湧き上がったときにこそ、祈る必要があります。

主にありて。

MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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