主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、レビ記の17章です。よろしくどうぞ。
レビ記 17章12節
あなたがたは血を食べてはならない。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
輸血を禁止する「キリスト教の一派」である『ものみの塔(エホバの証人)』の影響なのか、「クリスチャンって輸血しないんでしょ?」なんて尋ねられることがあります。そんなことはありません。クリスチャンは輸血も献血もします。もちろん個人の体質やら何やらによってできない、しないケースもあるでしょうが、特に宗教的に禁止したりはしていません。一方で、エホバの証人の方々が輸血禁止を主張する根拠になっているのが、今日の箇所です。「血を食べてはならない」これを拡大解釈して、「輸血はいかん!」と言っているんです。
さて、神様はどうして人に「血を食べてはいけない」と言ったのでしょうか。つまりこれは、肉を食べるときはちゃんと血抜きをしなさいよ、ということです。もちろんこの意味には「血はいのちそのもので、神聖なものだから」とか、いろいろな難しい説もありますし、それが主流だったりもするのですが、僕は実はシンプルに食中毒を防ぐためだったんじゃないかと思っています。
肉も魚も、血抜きをしないでおけばすぐに傷んでしまいます。まして当時は冷蔵庫だってありません。医術だって現代ほどは発展していませんから、食中毒から死に至る人も多かったことでしょう。ですから「肉を食べるときに血抜きをする」というのは、命を守るために必須だったんです。神様は人間を愛しているんですから、それを防ぐために「血を食べちゃダメだぞ」と言うのは自然なことです。現代の僕たちだって、血抜きをしていない肉を食べることはあまりありません。「血のしたたるレアステーキ」を食べるときでさえ、その肉は大抵は血抜き済みです。
「血はいのちである」とも書いてありますが、これはもしかしたら血の残った肉から虫が湧いたり腐敗したりしていく様子を、このように表現したのではないかと思います。虫もいのち、細菌だっていのち。それが湧く源である血もまたいのち。そしてもちろん僕たちだって血がなくては生きていくことはできません。血によって生かされています。
人の目が赤という色を警告色や危険色として強く認識するのは、これが血の色と同じだから、という説もあります。血が出るということは肉体に危機が迫っているということですから、それを見たときに脳に強い信号が出るというのも頷ける話です。
こう考えてみると、血ってなかなか奥深いものですね。人は血なしには生きられないけれど、血によって命を失うこともある。現代医療だって血液の扱いには細心の注意を払います。いずれにせよ、すごく大きな力を持った液体であることはまちがいないのだと思います。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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