【映画評】 アメリカが創り出した「怪物」 『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』

 ニューヨークの青年実業家、ドナルド・トランプは父の不動産会社が政府に訴えられて破産の危機に瀕している。藁にもすがる思いで悪徳弁護士ロイ・コーンに相談すると、思いのほか気に入られる。そこから2人の師弟関係が始まり、トランプは次々と成功を収めるが、その「怪物」への変貌ぶりはコーンでさえ想定できないものだった。

『アプレンティス:ドナルド・トランプの創り方』はドナルド・トランプの若き日を描くドラマ。2016年の米大統領選をきっかけに日本でも注目されるようになった彼の、過激な発言のルーツに迫る。コーンが伝授した三つのルール、「攻撃あるのみ」「非を認めない」「勝利を宣言し続ける」が現在のトランプの言動や政治姿勢にそのまま表れていることに驚く。今なおコーンの教えを忠実に守っているのか、あるいはすでにそれが性格に組み込まれているのか。アリ・アッバシ監督がメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』との類似性を指摘している通り、興味本位で「怪物」を生み出してしまったコーンの戸惑いと恐怖が、本作のもう一つのテーマとなっている。

本作が描く通り、「トランプを創った」のは直接的にはコーンだったかもしれない。しかし、アメリカが1980年代に本格的に導入した、新自由主義経済がその土壌だったのは間違いない。そして、その土壌を作ったのは1981年に大統領に就任したロナルド・レーガン。1980年の大統領選挙時に「Make America Great Again」というフレーズを初めて使った人物でもある。その意味でトランプ大統領の誕生は、レーガンが(あるいはアメリカが)約40年前に始めた政策の結果なのかもしれない。

新自由主義経済は「国民による自由な経済活動」を謳いながら社会保障を削減し、それを必要とする者を「自己責任」として切り捨ててきた。その結果生まれた深刻な格差や貧困に対して、2016年の大統領選に出馬したトランプが「Make America Great Again」というフレーズを再度使ったのは皮肉な話だ。自由主義経済の寵児である彼が、その路線を変えることはないだろうから。

同性愛者であるロイ・コーンが、自身のセクシャリティを決して受け入れないであろう保守層の人々と手を組み、一緒になってリベラル層を攻撃する姿は、性的マイノリティの解放運動がひと筋縄で行かないことを示唆している。コーンは公的な場では同性愛者であることを否定し、むしろ「同性愛者は軟弱だ」と攻撃しさえする。その一方で、政財界の大物が集まる高級クラブではそのセクシャリティを隠しもせず、堂々と同性間セックスを披露する。周囲の人間は当然それを知っている。つまり保守層にとって、性的少数者を攻撃するのはただの政治的ポーズに過ぎないのだ(ポーズであっても実際に社会から排除される性的少数者がいる以上、深刻な問題なのだが)。

もちろんコーンの晩年の失墜を考えれば、それが強大な影響力を持つ辣腕弁護士だからこそ許された立場だったのは明らかだ。政財界の後ろ盾がなければ、彼は容赦なく差別され排除される、1人の同性愛者に過ぎない。その堂々たる振る舞いや発言は、前半はコーンを無敵の存在に見せることに成功しているが、すべてを失った後半はただの強がり、虚勢にしか見えない(そんなコーンに最期まで寄り添うのが、彼が公に攻撃し続けた同性愛者である点に、彼の人格的な多面性が表れている)。

つまり前述の三つのルールは、ある程度の権力や経済力を持つ者でなければ有効に機能しない、ということだ。トランプの過激な発言が、時に強い批判を浴びながらも支持されるのは、彼が白人男性であることや経済力を有すること、大統領を一期務めた人物であることと無関係でない。

トランプもコーンも極めてマッチョな世界観を構築し、そこに生きている(生きていた)。それはアメリカが世界に有無を言わせず構築してきた帝国主義的、植民地主義的価値観の体現でもある。もちろんトランプが打ち出す政策がとりわけ暴力的かつ差別的で、分断をもたらすものなのは間違いない。けれど実のところ、アメリカが歴史的にたどってきた道からそう遠く離れたものでもないだろう。その意味でもトランプ大統領という存在は、アメリカという国が自ら生み出した「怪物」なのかもしれない。

(ライター 河島文成)

2025年1月17日(金)TOHOシネマズ日比谷ほか全国公開

配給:キノフィルムズ

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