良いものだって簡単に悪くなる【聖書からよもやま話524】

主の御名をあがめます。

皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。

聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、イザヤ書の16章です。よろしくどうぞ。

イザヤ書 16章6節

彼は実に高慢だ。
その誇りと高ぶりと不遜さ、
その自慢話は正しくない。

(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)

神様がモアブ人という人たちに怒っています。彼らはイスラエルの東にいて、よくイスラエル人と敵対していたようですが、神様は彼らが高慢だと怒っています。そして「誇り」「高ぶり」「不遜」「自慢話」が正しくないと言っています。

「高ぶり」「不遜」「自慢話」はともかく、「誇り」というのは一般的に必ずしも悪い文脈で使われる言葉ではありません。むしろ「誇りを持つ」のは良いこととして扱われることの方が多いようにも思います。でも確かに教会で「クリスチャンとしての誇りを持ちましょう」とか「○○教会の誇りをかけて!」なんて言葉は聞きません。それはたぶん、それ自体は必ずしも悪いものではないとしても、割と簡単に悪いものへと変化してしまうからなのではないかと思います。つまり誇りは高ぶりに変わり、高ぶりは不遜や自慢話へと変わるということです。

考えてみれば「誇り」に限らず、色々なことに似たようなことが言えるかもしれません。「愛」でさえ一歩間違えれば執着に変わります。「偏愛」とか「愛欲」なんて言葉だってあります。アリストテレスは「勇気とは臆病と蛮勇の中庸だ」と言いました。勇気が足りなければ臆病だし、過剰なら蛮勇だということです。「誇り」「愛」「勇気」それ自体は悪いものでなくとも、扱いを間違えれば簡単に悪いものへと変わってしまう。これが人間の罪ということなのかと思わされます。神様は悪いものでも良いものへと変えてしまう方ですが、人間は良いものでも悪いものへと変えてしまう者です。「誇り」「愛」「勇気」・・・一見いいものに思える概念でもそれを抱くとき、扱うときには祈りが必要なのかと思います。

それではまた。

主にありて。
MAROでした。

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横坂剛比古(MARO)

横坂剛比古(MARO)

MARO  1979年東京生まれ。慶応義塾大学文学部哲学科、バークリー音楽大学CWP卒。 キリスト教会をはじめ、お寺や神社のサポートも行う宗教法人専門の行政書士。2020年7月よりクリスチャンプレスのディレクターに。  10万人以上のフォロワーがいるツイッターアカウント「上馬キリスト教会(@kamiumach)」の運営を行う「まじめ担当」。 著書に『聖書を読んだら哲学がわかった 〜キリスト教で解きあかす西洋哲学超入門〜』(日本実業出版)、『人生に悩んだから聖書に相談してみた』(KADOKAWA)、『キリスト教って、何なんだ?』(ダイヤモンド社)、『世界一ゆるい聖書入門』、『世界一ゆるい聖書教室』(「ふざけ担当」LEONとの共著、講談社)などがある。新著<a href="https://amzn.to/376F9aC">『ふっと心がラクになる 眠れぬ夜の聖書のことば』(大和書房)</a>2022年3月15日発売。

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