(1974年のクリスマス)
……主のみ使いが夢の中で彼に現れた
―― マタイによる福音書1章20節
「気立てのよさ」を自慢して 美徳と同じく悪徳も
どちらもよく知る わたしはいつも
「正しいヨセフ」と同時に 「邪悪なヘロデ」を
どちらもよく知る わたしはいつも
結局 恵みの 門外漢。
そんなわたしはどうしても 毎年毎年 着実に
天使が訪ねて来てくれる
その来訪が必要なのだ。
――ここで、急に、夢を介して、現実の中に、物語が飛び込んでくる――
【恵みについて 毎年必ず 天使が知らせてくれる
夢の中で天使が現れ わたしにとって必要な
大切なことを告げる。】
「見よ 処女が身ごもっている」
「神は 我々と 共におられる」
夢の中での 天使のみ告げ。
冬の寒い空気を貫き 天使の夢は
力を与えてくれる。
そうしてわたしは
「御子イエス」を贈り物として頂く。
この夢は 一筋の光を放ち 一年間
わたしを照らしてくれる。
春分が過ぎ 夏至が過ぎても 光は消えず
12か月の歩みを 照らして行く。
いつしかそれは 日の光となり
馬小屋の餌箱の中のイエスの像を
明るく照らし出している。
わたしはそこに 確かにいつも 見ている。
贖い、救い、助ける方を。
賛美の原型はそこにあることを。
奥深い わたしの心の奥底に その原初の形は
据え付けられて。
秋も終わりに近づく頃に わたしは指折り
数えている。
もう一度あの 夢を見るまで あと何日
待てばいいのかと。
そしてヨセフが眠りから覚めると、彼は夢で命じられた通りに行った。彼はマリヤと結婚した。赤ん坊が産まれるまでに彼女を知ることはせず、生まれた赤子をイエスを名付けた。
―― マタイによる福音書1章24~25節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。