「祈りの初心者」たち ―― 子どもたちや、新しくクリスチャンになった人々には ―― 「祈りは簡単だ」と思う。祈りは誰でも潜在的な力や祈る衝動を持っている。祈りはわたしの中に深く根づいている。それはわたしたちは結局、神によって、神のために創造されたからである。では、なぜ、わたしたちは祈らないのだろうか。わたしたちは生まれた時から、祈りの言葉を持っている。祈りは、わたしたちの最初の言語なのだ。わたしたちは恐ろしい問題に遭遇する時、神に助けを叫び求める。わたしたちは計り知れないほど祝福されたと感じると、神に感謝をささげる。つまり「助けて!」「ありがとう!」と叫ぶ。それは祈りの基本的な言葉である。ほんの一言の単純な祈りである。
神はわたしたちに語りかける。神はわたしたちを招く。神はわたしたちを憐れみ、わたしたちを愛し、わたしたちの間に降りてこられ、わたしたちの内に入ってくださる。そして、わたしたちは神に答える。応答し、受け入れ、受け止め、賛美をささげる。一言で言えば、わたしたちは祈るのである。祈りとは、それ程に単純なものである。これ以上、何が必要だろうか。
だが、祈りは単純な段階に留まるものではない。わたしたちは試練の荒野を何年も歩き回る。さらに、わたしたちは旅を始めた頃の単純なことと子どもっぽいことに疑問を持ち始める。冷笑的な時代の中にどっぷりつかっている自分自身を見出すのである。最初にあった無垢な部分が軽蔑と疑いによって浸食されていることに気づく。そして、いつしか「魔術としての祈り」ということを考え始め、小手先のくだらない儀式に手を出し、人生を簡単にさせてくれる言葉のおまじないに頼り始める。すると間もなく、最初の単純な祈りは「様々な疑問と疑いと迷信の塊」に巻き込まれてしまう。
これらのことはわたしたちの誰にでも起こることである。祈る人々は、みんな、いつしか何か難しさをかかえる結果に終わってしまう。だから、わたしたちには助けが必要なのだ。つまり、神学者を必要としている。祈る人、あるいは祈りを続けたいと思う人が、わたしたちの間にいる。そうした人たちにとって、神学者こそが、必要不可欠な存在であり、最良な友人でもある。
イエスは言われた。「わたしがあなた方に行ってほしいのはこれだ。目立たない場所で静かな場所を探すこと。そして、神の御前でよい人ぶりたいという誘惑を退けること。とにかく、ただひたすら端的に・真摯に・そこに留まれ。そして、自分自身へと向いている思いを動かし、神へ焦点を合わせれば、神の恵みを感じ取り始めることになる。
―― マタイによる福音書6章6節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。