11月27日「嘆きの歌」

詩編の七割が嘆きの歌である。それらの嘆きの歌はダビデの祈りから生まれたり、あるいはダビデの祈りの生活から派生したものである。ダビデは死の喪失感に遭遇したり、失望したり、死に直面した。ダビデはそれらどれも避けたり、否定したり、和らげることもしなかった。一つひとつに対峙(たいじ)し、一つひとつに祈った。ダビデの人生は岩のような威厳があり、聳(そび)え立つ荘重がある。それらはダビデの「嘆きの歌」が生み出したものである。

現代文化と対比すると、その違いに驚愕(きょうがく)する。わたしたちの文化は印刷物とジャーナリズムのメディアによって特徴づけられている。災害が終わりなく克明に報道されている。犯罪、戦争、飢饉(ききん)、洪水そして政治的な悪事と社会的なスキャンダルが報道されている。わたしたちの文化において、だれでも出来る方法で関心を集めようと思ったら、何か悪いことを行えばよいのだ。悪ければ悪いほどに、注目される。何であれ悪いことが起こると、あるいは何であれ悪いことをすると直ぐにコメンテーターが噂話をし、リポーターがインタビューをし、編集長が御託(ごたく)を並べ、ファリサイ人は道徳を論じ、それから、精神分析が行われ、政治的な改革が始まり、学術研究へと資金が流れ込むのである。 ―― それなのに「嘆きの歌」の一編も歌われない。
真理が全く真剣に受け止められず、愛が少しも真剣に受け止められないために「嘆きの歌」がどこにもない。「いのち」というものがある。神が与え、キリストが贖(あがな)い、聖霊が祝福した「いのち」。そうした「いのち」に比べるなら、人間の命ですら、それほど重要なものとはならない。人間の命は「ニュース」としてだけ大切にされる。そこに尊厳などはない。人間の命は「ささいなこと」と受け止められている。

都が見えてきたとき、イエスはその都のために泣いて言われた。「もし、あなたがこの日を全てがよいと理解していたら、全てがよくなっただろうに! だが、今やもう手遅れだ。……それは全て、あなたがたのせいだ。せっかく神がわざわざお越しになったのに、それを理解せず歓迎もしなかったからだ。」
―― ルカによる福音書19章41~42節、44節b

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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