今年、創立150周年を迎えた日本基督教団横浜指路教会(横浜市中区)が11月15日から20日にかけて、創立150周年記念展示会を会堂内で開催した。4月、5月に企画した歴史散策ツアーを含む記念事業の一環で、期間中の16日、17日にはそれぞれコンサート、講演会も行われた。
同教会の歩みは1874年から始まる。その年の4月ごろ、「ミセス・ヘボンの学校」のH・ルーミスとO・M・グリーンのクラスで、教理問答を暗記したり、受洗を希望したりする者が現れた。そこで7月に10人、9月に7人がルーミスから洗礼を受けた。さらに、南小柿洲吾を長老に選んで、18人の信徒によって教会を創立するようになった。この教会を横浜第一長老公会(現在の横浜指路教会)という。
同年9月、日本で最初の長老教会として設立された同教会の初代牧師はルーミス。1892年にはヘボンの尽力により赤レンガの立派な会堂が建設された。フランス人建築家サルダが設計した会堂は800人を収容することができ、当時日本で指折りの西洋建築だった。だがこの会堂は、1923年の関東大震災で倒壊してしまう。現在見ることができる会堂は、1926年に建てられたものである。
会場には、こうした歴史をふり返る写真や解説パネル、キリスト教関連資料が並ぶ。展示を担当したのは、横浜プロテスタント史研究会代表の岡部一興さんをはじめとする有志たち。
展示資料は、日本聖書協会所蔵9点、明治学院大学図書館所蔵9点、明治学院歴史資料館所蔵3点、青山学院資料センター所蔵8点、横浜開港資料館所蔵5点、東京神学大学図書館所蔵2点、東京女子大学比較文化研究所所蔵2点、フェリス女学院資料館2点、個人など所蔵7点など。豊富なキリスト教関連資料を示し、同教会の歴史のみならず、近代日本のキリスト教宣教のあゆみを俯瞰できる内容となっている。
――横浜指路教会といえばヘボンですが、これだけ長い歴史の中には、数多くのいろんな人たちの労苦や献身が刻まれていると思います。歴代牧師のことは一人ひとり紹介されているので分かるのですが、あまり知られていない信徒で、隠れた功績者などはおられますか?
岡部 それなら成毛(なるも)金次郎ですね。関東大震災で会堂が倒壊したけれど、3年後に新会堂を建てられたのは、彼が多くの献金をしたからです。再建には現在のお金で10億円以上がかかったのですが、その大半を教会の長老だった成毛が捧げました。彼は宣教師ジョン・バラのバラ学校に学んだ人で、1898年、東洋商会という商社を設立し、財を成したのです。
――他にもエピソードはありますか?
岡部 戦時中、会堂でフェリス女学院の卒業式が行われたことがありました。当時は校名を「横浜山手女学院」と変更していましたが。海軍が講堂を使っていたので卒業式を行うことができず、この会堂で行いました。
伝道の伸長や婦人会のめざましい活動、1990年の会堂大改修など、華々しい事柄だけでなく、教会の分裂や混乱についても解説されている。横浜指路教会は、1941年に創設された日本基督教団に合流し、戦後を迎えた。1950年、指路教会の林三喜雄牧師は他の4教会とともに日本基督教団離脱の声明書を発表したが、それは教会員の総意ではなかった。指路教会では全員協議会や総会を開いたが議論が紛糾。教会全体が納得できる決議を出すことができなかった。そこで林牧師は辞任を申し出、林牧師とともに76人が指路教会を退会し、別の教会(現・日本キリスト教会横浜桐畑教会)を創設した。指路教会には村田四郎牧師が着任し、事態の収拾に努めた。
日本の近代化と二つの大戦、敗戦からの復興、高度成長、そして国際化の進む現代へと、指路教会が眺めてきた歴史はあまりにも長く起伏に富んでいる。
同教会牧師の藤掛順一さんは記念展示会の開催にあたり、「近代日本の歩みを牽引してきた横浜において、日本人とキリスト教との出会いがどのように起こり、そこに何が生み出されたのかを考えたい」と期待を込めた。
困難な時代にあっても倦(う)むことなく、祈り、真心を捧げてきた「歩み」を、人は「歴史」と呼ぶが、そこに絶えずあったのは、神と一人ひとりの深い交わり。目に見えないそうしたつながりを、目に見えるものよりも確かなものとして大切に思う心が、幾世代も重なって、この教会の歴史を作り上げてきた。日本キリスト教史の一つの証として、信仰の遺産が受け継がれていくことを願ってやまない。