人間の「回心」という出来事は、わたしたちを感激させる。それは自然で、妥当なことでもある。「新生」と「キリストの内に新しく作られること」の二つは、人生で最も重要な出来事である。しかし他方で、この「回心」を通して、全てのクリスチャンは複雑な「成長」を体験する。「新生」は重要なものである。それは人を熱狂させる。しかしだからと言って、人がこの「成長」を軽視したり、無頓着になっていいということにはならない。
「成長」とはそもそも、色々なものがそこに含まれ、細々としたもので、途方もないほどの時間を要し、多くの修練と忍耐などを必要とする。それで、わたしたちは「成長」を邪険に扱い、手早く取り扱うことが出来る事柄へと関心を移してしまう。そうして、わたしたちの関心を「回心」という出来事に向けてしまうことが、度々起こる。そのために、福音伝道の中ではスピリチュアリティーばかりが語られ、「成長」に関する事柄は話題にもならない、ということが起こる。たとえて言えば、「出産すること」自体には、使命感が伴う訳ではない。しかし「親になること」には使命感が必ず伴う。この二つを比べるなら、もちろん「出産すること」の方がやさしいと言える。
しかし、教会は如何だろうか。新しく生まれ変わった人々を成人するまで導く、長く複雑で苦悩に満ちた仕事がある。その仕事を拒否し無視する教会に対しては「聖書に述べられているほとんどのことに怠慢だ」と言わざるを得ないのではないか。
神の味を知っているあなたへ。
さあ、胸に抱かれた乳飲み子のように
混じりけのない神の純粋な慈しみを
深く飲みほしなさい。
神がどのようなお方であるかを知っている。
そうすればあなたは神にあって成長し、
全き者となるのだから。
―― ペトロの手紙(一)2章2節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。