主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、エレミヤ書の49章です。よろしくどうぞ。
ヘブル人への手紙 2章3節
こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
「どうしてもゆるされない罪」とはどんなものでしょう。人を殺すこと、人を裏切ること、神を冒涜すること、唐揚げに勝手にレモンをかけること・・・と、さまざまな「罪」が人それぞれあれこれと出てくるかと思います。しかし、おそらくそのどれもが、神様や人がそれを「ゆるす」と言えばゆるされることです。ゆるす側が「ゆるす」と心を決めれば、ほとんどの罪はゆるされます。
しかし、どうしてもゆるされないケースがあります。それは、ゆるされる側が、ゆるす側の「ゆるし」を受け入れない場合です。被害者が「ゆるす」と言っているのに、加害者が「いや、私はゆるされるべきではない。あなたは私を憎み続けるべきだし、そうしてください」なんて言ってしまったら、ゆるす側もゆるすにゆるせず困ってしまいます。
謝罪が受け入れられない、というケースは世でも時々見るものです。しかし、意外とゆるしが受け入れられないというケースも実は少なくないものです。「自分はあの人にあんなことをしてしまったから、もうあの人と顔を合わせる資格なんてない」と、勝手にその人と距離をとってしまったりすることは、誰にでも起こり得ることではないでしょうか。でももしかしたらその人は、実はあなたのしたことなんてもうとっくに気にしていなくて、むしろあなたに会いたがっているかもしれません。自分で自分の罪を「ゆるされない」と決めつけてしまうこと。これが何よりも「ゆるされない罪」である可能性があるんです。
神様と人間の関係はこれと似ています。神様の側が「君の罪はゆるしたよ。だから会いにきてよ」と言ってくれているのに「いやいや、自分の罪がゆるされるはずがない。」とそれを拒絶してしまうことが、世にはとても多いんです。それをきっと神様は「さみしいなぁ。会いたいのになぁ」と思っています。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
【メールマガジン始めました】
クリプレのメールマガジンが始まりました。日々、クリプレの最新記事を皆様にお届けいたします。無料でご利用いただけますのでよろしければこちらのリンクからご登録くださいませ。
【おねがい】
クリプレは皆様の献金により支えられています。皆様から月に300円の献金をいただければ、私たちはこの活動を守り、さらに大きく発展させてゆくことができます。日本の福音宣教のさらなる拡大のため、こちらのリンクからどうか皆様のご協力をお願いいたします。