9月18日「復活したキリスト」

 誰かを訪問したり、会議に出席したり、スケジュールを組んだりする、その一つひとつ全てに、わたしはいつも、ある期待を抱く。「復活したキリストが、わたしより先にいてくださるのだ。」「復活されたキリストが、もうその部屋におられる。」「キリストは何をしておられるのだろうか。何を話されるのだろうか。何が起こっていくのだろうか。」という期待を、わたしはいつも抱く。

 わたしは、牧師という職務の中で、この期待を確かなものとするために、次の御言葉を引用するように習慣づけている。その習慣とは、全ての訪問や会議の前に、次の聖書の言葉を聞くことだ。 ―― 「イエスは復活された! イエスは『エモールトン通り1020番地』へと、あなたより先に行っている。あなたは、そこでイエスに出会うだろう。イエスが前に言っておられた、通りに。」と。そして、エモールトンの仕事が終わると、次の聖書の言葉を聞くのだ。「イエスは復活された! キリストはあなたより先に、『聖ヨセフ病院』に行っている。あなたはそこでイエスに会うだろう。イエスが前に言っておられた、通りに。」そして、その現場に到着し、目的の部屋に入る。その時、何を為し何を言えばよいのかは、わたしはもう頭を悩ますことはしない。そこで、わたしは「復活されたキリストが何を為し・何を語るか」に注意を払うだけだ。復活したキリストが今ここで何かを為さり、何かを語られる。その一つひとつが、わたしの歩みから流れ出て、福音の物語を作り出す。わたしはその流れに従う ―― それで牧師としての役割を果たせる。これを伝統的神学用語では「神の先行」という。つまり恵みの先行である。わたしたちは、いつも、何か既に起こっていることに出会い続けるている。時折、わたしたちは言葉や感情をはっきりさせたり、見失われた関係を突き止めたり、記憶の一つひとつの根源的意味を取り戻すよう助けたりする。だがしかし、わたしたち牧師は、いつも復活されたキリストが既に始められたことに沿って進んでいるに過ぎない。復活されたキリストは既に何かを行ったのだ。わたしたちは、そのことに関わるだけなのだ。
 

天使たちは婦人たちに言った。「ここには何も恐れるものはない。あの、十字架に釘で吊り下げられたイエスを。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。あの方自身がそう言っておられた、まさにその通りに。さあ、入りなさい。そして、イエスの体が置かれていた場所を見なさい。」「さあ、来た道を急いで戻りなさい。それから、イエスは弟子たちにこう告げるのだ。『あの方は死者の中から復活された。あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行っている。そこでお目にかかる。』これが伝えるべきメッセージなのである。」
 ―― マタイによる福音書28章5~7節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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