神を求める熱望は、たやすく消費行動になってしまう。だから、わたしたちには導き手あるいは同伴者として、賢く良識ある友人を必要とする。「スピリチュアリティー=霊性」を渇望している多くの人々がいる。だから、そこにひとつの市場を見出す起業家もいる。その人々はジャンク・フードのようなものを販売する。かつて、中世の巡回修道士は聖遺物と称して色々なものを売りつけた。たとえば「本物の十字架から取られた木の破片」とか「聖人の指の骨」あるいは「イエスが身に着けていた『縫い目のないローブ』から取られた一束の糸」などを、軽率で騙されやすい人が、つかまされたのだ。しかし、「スピリチュアリティー」に関して言えば、むしろ現代の北米の人々の方が、おかしなものをつかまされている。
わたしたちは「よき消費者」として生まれた時から飼い馴らされている。そのようなわたしたちであるから、消費行動で神への渇きを満たそうとする。しかし、それは言い訳にならない。福音の中には、明晰(めいせき)な助言があり、わたしたちに与えられている。その助言に従えば、このような消費者社会を避けることができるはずなのだ。福音はこう述べる。「貧しい人は幸いである。……自分自身を捨て、十字架を負い、私に従ってきなさい……この世を愛せず、世にあるものをも愛してはいけない」この言葉は、わたしたちの主の助言である。それは賢い福音的な信仰の先祖たちによって確認され、また色々な方法で展開されている。
「欲しい」「欲しい」「欲しい」と繰り返すばかりの世界は、じきに過ぎ去る。しかし、神ご自身がお望みになっていることを行う人は、永遠に堅く立つ。
―― ヨハネの手紙(一)2章17節
*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。