9月2日「世俗化した文化」

わたしたちの文化は明らかに失敗している。それは文化が「世俗化している」からだ。世俗化すると、文化は「物質」や「機能」に矮小化(わいしょうか)されてしまう。最初のうち、人々は例によって「世俗化した文化」の中に生きていると、喜びに満たされる。「それがどんな性質を持ち、どんな目的のためにあるのか」ということに心配せずに、全てを「物質」に還元し、自分の思うままに扱えるようになる ―― それは実に素晴らしいことだ! と喜ぶ。さらに、「それが何につながって、結果として何を意味することになるか」ということにも煩(わずら)わされずに、どんどん「行う」という、信じられない程の自由を得る ―― それは素晴らしいことだ! と喜ぶ。だが数年も過ぎれば、わたしたちは物質の狭間で孤独になり、自由に辟易(へきへき)する度に、そして、わたしたちの楽しみは陰っていく。

そうなると直ぐに、次の対策が取られる ―― 「自分自身を幸せにした物をもっと多く獲得しよう」と。つまり、多くの物をたくさん獲得し、もっと多くの行動を行ってみる。しかし数年も過ぎれば、わたしたちが少しもよくなっていないことに心から当惑する。

実に、北米アメリカ人は、優に一世紀以上にわたってこのことを為し続けてきている。わたしたちは物質や機能に矮小化する文化を創り出すことに成功してきた。その凄まじいまでの成果として、世俗化が完成しつつあることに、わたしたちは驚くかもしれない。 ―― 全ては物質と実績に還元されている! そして孤独感と倦怠感(けんたいかん)が伝染病のように広まっている。わたしたちは成功の徴(しるし)としてのBMWを運転している孤独な自分。あるいは、素晴らしい転職に成功しながら、倦怠感で死にそうな自分。そいう自分たちを見て、わたしたちは驚く。

そして今や、一つひとつが「もっと欲しい」「もっと実績を」と進むことで事態が悪化し、社会の病は悪化することに少数の人々は気づき始めている。それがさらに悪化すれば、文化は死を迎える。 ―― つまり「完全に世俗化した文化」とは「文化の死骸」である。

それを何であるかを 知ろうと願ったが、
結局、頭が割れそうな頭痛が起こったのだった。
その苦しみは 神の聖所に入るまで続いた。
そこでわたしは、全てを悟った。
神よ、あなたは連中の道を
滑りやすいものとされた。
そうして連中はついに
思い違いの排水溝に落ちて滅ぶのだ。
―― 詩編73編16~18節

*引用される「聖書の言葉」はピーターソンさんの翻訳・翻案を訳したものです。

63db463dfd12d154ca717564出典:ユージン・H.ピーターソン『聖書に生きる366日 一日一章』(ヨベル)
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