主の御名をあがめます。
皆様いかがおすごしでしょうか。MAROです。
本日もクリプレにお越しいただきありがとうございます。
公私共に少々ドタバタしておりましてこのコラムはお休みをいただいておりましたが
何とか落ち着きましたのでまた細々と始めようかと思います。
聖書のランダムに選ばれた章から思い浮かんだよもやま話をしようという【聖書からよもやま話】、今日は 旧約聖書、創世記の34章です。よろしくどうぞ。
創世記 34章27節
ヤコブの息子たちは、刺し殺された者のところに来て、その町を略奪した。自分たちの妹が汚されたからである。
(『聖書 新改訳2017』新日本聖書刊行会)
ヤコブには12人の息子がいましたが、もう一人ディナという娘もいました。あるとき、このディナがヒビ人という民族のシェケムという男に乱暴されてしまいました。しかしシェケムは乱暴を働いたそのディナを「私の妻にさせてください」と、ヤコブと12人の兄弟のところに挨拶にやってきました。日本でも昔からいわゆる「既成事実」を作って結婚するということは行われていますが、しかし乱暴を働いておいてそんなことを言うのはそれこそ本当に乱暴な話です。
兄弟たちはそんなシェケムを騙しました。「あなたたちの民族がみんな私たちの習慣に従って、割礼を行うなら妹を妻に差し上げましょう」と言い、彼の一族がそれを受け入れて割礼を行い、弱っているところに襲いかかって彼らを皆殺しにしてしまいました。割礼というのは男性器の包皮を切ることですから、それをやれば当然、何日かは傷口が痛んで襲われてもまともに戦うことができなくなります。そんな隙を狙って、兄弟たちは憎むべきシェケムだけでなく、その一族まで皆殺しにしてしまったのでした。
しかし、そんなことをしてしまったので、当然ヤコブと兄弟たちはヒビ人から恨まれ、住んでいる土地から逃げなくてはいけなくなりました。もちろん一番悪いのは最初に乱暴を働いたシェケムですが、怒りに身を任せてしまったことにより、自分たちも苦難を背負い込むことになってしまったわけです。
怒り自体は必ずしも悪いものではありません。愛する妹が乱暴されたのですから怒るのはむしろ当然のことでしょう。それで怒らない方がむしろ不健全かと思います。しかし怒ったからと言って「騙す」「殺す」「奪う」といったことが正当化されることはありません。たとえ相手が悪いとしても、それによって自分の罪が正当化されることはありません。そこは僕たち現代人も往々にして勘違いしてしまうところかと思います。
「向こうが先にやったんだからこっちもやりかえしていい」
「悪いことをした奴には誹謗中傷をくわえてもいいし、それで当然だ」
そんな価値観が世には横行していますが、本当にそれでいいのか、よく考えてみる必要があるかと思います。悪人のために、自分まで悪人に成り下がってしまっていいのかと。
とはいえ、こんなことを言えるのは僕が今、怒っていないからかもしれません。実際に何かが起こって、怒りの感情に満たされた時には、冷静な価値判断ができるかどうかわかりません。その時に怒りに身を任せてしまわないように気をつけるとともに、そこまで怒るような事態から守られるように祈るばかりです。
それではまた。
主にありて。
MAROでした。
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